主宰する劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)が創立40周年を迎えた。俳優三宅裕司(68)。今月11日から、40周年記念公演「ピースフルタウンへようこそ」を東京・サンシャイン劇場で上演する。演劇人としての40年を振り返ると、そこにはマルチに活躍する意外な一面が垣間見える。こだわりの「東京喜劇」について、持論を熱く語った。
★大阪とは違う笑い
大阪とは違う。この40年間、東京の笑いにこだわり続けてきた。では、三宅が目指す「東京の笑い」とはどんなものなのだろうか。
「毎回新作をやって、おもしろい設定を作り、おもしろいせりふを書いて、笑ってもらう。それと落差の笑い。歌やダンスはよりレベルが高くかっこよく、その後のずっこけがものすごくばかばかしい。この落差で笑わせるのが東京の笑いだと勝手に言っています」
ただ、時代によって笑いのツボは変わるもの。だが三宅に大きな変化はない。
「その時代に生きている人が、その時代に生きている人を笑わせるために作ったものが、その時代の笑いだと思うんです。だから、同じ笑わせ方になっているのかなというのはあるかもしれない。だから、もう少し新しいものでという思いはいつもあります。時事ネタを入れると、わりとその時代のネタにはなるのかなと」
SETではCMネタ、下ネタ、客いじりはNGだ。それは今も変わらない。
「CMネタは本当に安易に笑っていただけるので、誘惑に負けてちょくちょく入れています。安易さはNGですが、結局自分のポリシーに頭を下げて、『ちょっといいじゃん』とね(笑い)」
創立40周年のSET。最も手応えがあったのは、88年の「ネガティブ・ポップス・ストーリー」だという。日本人とロックをテーマに劇団員が生演奏を披露する作品だ。
「楽器のできない不器用な劇団員が太鼓だけのグループをやるんですけど、それをサザンオールスターズのケガニさんに仕込んでもらったんです。けど、最初は怒って帰ってしまって(笑い)。でもそこから頑張ってくれて。その太鼓で一番の拍手が起こったんです。劇団員はみんな泣いていました」
逆に難産だったのは99年「未来マヤ文明の逆襲」。マヤ文明の消滅を扱った作品だ。
「作家がマヤ文明を調べ過ぎてね。ストーリーが難しすぎてギャグを入れられなかった。本読みで4時間かかり、ここに音楽とギャグを入れて2時間に縮めるのは無理だなって思いましたね。つらかったぁ~」
とはいえ、この作品によって、三宅にある変化が起きたという。
「あの時から作る方に行ってしまったかもしれない。演じる方もやりたいんですけど、台本でおもしろいせりふを書くことの楽しさにね。もっと分かりやすく、お客さんが感動できるものを作りたいと思うようになったきっかけですね」
SETの芝居はメッセージ性が強い。
「熱海五郎一座というSETのライバルになる強力な劇団を僕が作っちゃったから。違いを出すためにSETは社会的なテーマを強く出し、熱海五郎一座は笑いをテーマにしようとしたんです」
40周年記念公演はどんなメッセージを伝える作品なのだろうか。
「日本の幸福度は非常に低い。こんなに文化的な生活をしているのに、なんで幸せを感じないのかというのがテーマです。実際にあった事件がきっかけになっています」
★人生の節目が影響
人生の節目の出来事が芝居にも影響を与えてきたという。それは結婚と子どもの誕生だ。
「トークやラジオでも全部に影響がありました。演技も、結婚した経験があった方がいい設定もたくさんある。子どもも育てた経験がないと分からないことがあるので、リアリティーが増したと思っています」
★病から復帰も転機
椎間板ヘルニアと狭窄(きょうさく)症を患ったことも転機となった。11年7月に手術を受けたが、足にしびれが残り、リハビリは約半年間にも及んだ。執刀医からは、復帰は「奇跡だ」と言われた。
「事務所はダメかもしれないと言われていた。あのころマネジャーが病室に来るんだけど、やたらみんな自分の生い立ちを話すんです。しゃべることなくなって(笑い)」
劇団の創立以来走り続けてきたが、立ち止まる時間ができたことで、芝居への考えも変わった。
「それまで作品は作家のものだから、そのままでいいんだという考えだった。それをミュージカル・アクション・コメディーに変えるのが俺の仕事だと」
それが、作品は自分で考えねばならないと、思うようになったという。
「あの期間は、自分がなぜ生かされているかを考える時間だったと思うんです」と振り返る。自分で考える作品とは、東京喜劇を残すことだった。
SET設立当初は、笑いを大事にした“軽演劇”作りを目指していた。
「今だったら東京喜劇と言ったほうがお客さん的には響きがいいのかなと。萩本欽一さんと話したときに、もう軽演劇を知ってる人はみんな死んじゃっているから、三宅ちゃんが『これが軽演劇だ』と言えば、それが軽演劇だよと言っていただいて、それなら『俺のが軽演劇だ』と言っちゃおうと(笑い)」
人材を見抜く目もある。SET設立当初、小倉久寛(64)をオーディションで入団させた。
「全てが生かされていますからね(笑い)。背が低くて、眉毛が太くて、でも良い声。二枚目の声をしている。この落差は他の社会ではバカにされるけど、この世界ではお金を稼げる。小倉がいたから僕自身も生きましたしね。舞台上で三宅裕司はおもしろいと言われるのは、小倉がいたからというのはありますよ」
演劇人三宅の目に、今の演劇界はどう映っているのだろうか。
「ん~、あまり考えないですね。自分のことばかりです(笑い)。今はいろんな映像が氾濫する時代。その中で、生の舞台という1つのジャンルは価値が上がっているんじゃないかとは思っています」
芝居や音楽、MCなどマルチに活躍する。だがそこには、コンプレックスもあると吐露する。
「僕は養成所を出ていないので、演劇の勉強していないという思いがいまだに抜け切っていないんです。だから、1つのことをやり続けている人を尊敬しています。ものすごくいろんなことをやってきたので。その1つ1つを突き詰めたつもりでも、2番にしかなれない。だから、東京喜劇では1番になりたいなと思っています」
40年のキャリアを積み、重鎮とも呼ばれる存在。それでも上段に構えず、芝居や笑いを熱く語る時の目は、少年のようだった。【川田和博】
▼小倉久寛(64)
楽屋の鏡前は毎日メーク道具の位置が1ミリも違わないほどきちょうめんで、楽日の芝居が始まった時には楽屋がきれいに片付いているほどせっかちで、自分のビッグバンドゲスト中川晃教さんの歌声を聴いてドラムをたたきながら泣きだすほどの感激屋で、公演期間中の朝5時にファクスでセリフ直しを5枚送って来るくらい劇団が好きで、「ゴルフのめった打ち行ってくる」という奥様を愛している、そんな人です。
◆三宅裕司(みやけ・ゆうじ)
1951年(昭26)5月3日、東京都生まれ。79年に劇団スーパー・エキセントリック・シアターを旗揚げ。ニッポン放送「三宅裕司のヤングパラダイス」、日本テレビ系「THE夜もヒッパレ」で人気に。04年から「伊東四朗一座」「熱海五郎一座」を上演。07年ビッグバンド「三宅裕司&Light Joke Jazz Orchestra」結成。趣味はドラム、落語、ギター、三味線。血液型B。
◆「ピースフルタウンへようこそ」
東京の閑静な住宅街・青金台はいつも笑顔にあふれている。そんなピースフルタウンに新婚の若夫婦が引っ越し。彼らはここに住みたいと思ったわけではなく、ある目的があった。それを隠し、街に溶け込んでいった。
(2019年10月6日本紙掲載)