戦争を知る、数少ない俳優の仲代達矢(83)。戦中はB29の爆撃による空襲で逃げ回り、戦後は食べるものもない極貧生活も体験した。そして、終戦を迎える3カ月前、当時12歳の少年には悪夢のような出来事にあった。「戦争で一番被害を受けるのは大衆。絶対、戦争をしてはいけない」。戦後71年目の16年、仲代は強く訴える。

 終戦の年、1945年5月。12歳だった仲代は「今でも悪夢を見るので、あまり話さなかった。日にちも忘れたいと思って、覚えていない」というつらい体験をした。

 「青山小学校の友だちに会いに行った時、渋谷や青山に空襲があった。焼夷(しょうい)弾がばらばらと落ちてきた。明治神宮の参道付近を、近所の小学生ぐらいの小さな女の子の手を引っ張って逃げていたら、急に手が軽くなった。彼女が焼夷弾を直接受けて、腕しか残っていなかった。数センチずれていたら、私に当たっていたかもしれない。恐ろしくなって、腕を捨てて逃げてしまった。せめて、腕だけでもきちんと葬ってあげていたらという後悔が今でもあります。当時は上空を爆撃機のB29が通るのを見て、『今日は取りあえず生き残った。明日は分からない』という毎日だった。新宿が空襲で丸焼けになり、真っ黒になった死体が山のようにあった。強烈な体験だった」

 物心ついた時から戦争の時代で、軍国少年だった。

 「国を守るために死ぬことに何ら抵抗もなかったし、当たり前と思っていた。竹やりで軍事教練もやった。けれど、8月15日の終戦の日を境に、鬼畜米英と言っていた大人たちは親米派になった。大衆は1日で変わると思った。強烈な人間不信になった。その時のニヒルな感じが、役者になった根源にあると思います」

 戦後は戦争のない平和な時代になったが、戦時中と変わらない極貧生活が待っていた。

 「戦争中も大変だったけれど、戦後の4、5年が苦しかった。飢餓状態だった。父が亡くなり、母も大病で、弟と2人で家計をやりくりした。戦時中は大豆の油を飛行機の燃料用にとって、パサパサになった大豆を10粒入れたのが弁当だった。戦後も食べる物がなくて、毎晩見る夢は食べ物のことばかり。大福食いたいなとか。バナナを食べることができたら死んでもいいと思った。甘いものがほしいと思うと歯磨き粉をなめたり、そんな飢餓状態が数年続いた。それも戦争が原因なんです」

 黒沢明監督の映画「乱」(85年)に主演したが、これは反戦映画という。

 「今も世界で上映されているが、反戦映画として認識されている。人間が欲望を持っている限りは、親子でも殺し合う。人間不信、警告の映画だった。僕も『人間の條件』とか反戦映画によく出ていて、アンチ体制側の人間を多く演じている。黒沢監督は最後にトルストイの『戦争と平和』を撮りたいと話し、戦争を意識して仕事をしてきた。今、戦争をテーマにした作品があるかというと、何ごとにも経済的な効率を優先している。僕を含めて。作り手がいいものを作っていかないといけない。若いころ、僕は俳優になるため、3食を1食にして映画を見た。映画に人間としての生き方を教わった。あしき体制に対してどうするかも含めて。僕は芸能人であるけど、かつては役者にも、演出家にも、脚本家にも哲学的な思考があったような気がする」

 今年で84歳となる。戦争を知る世代だからこそ、積極的に声を上げていく覚悟を持つ。

 「原発がないと困るというけれど、町を見るとネオンだらけ。原発に反対するなら、国民全体が電気量を少しでも減らす努力をしないといけないと思う。そして、今の政治家は戦争を知らない世代で、僕は戦争には行ってないけれど、戦争を知る最後の年代。戦争で一番被害を受けるのは庶民です。戦後70年は平和が続いたけれど、それは総理大臣が2年ぐらいで変わったのが良かった。これが強権の指導者がいて、今、『国を守る』とか『日本は世界平和のためにアピールしないといけない』と声高に言っている。僕も大衆の1人ですが、大衆は強い指導者に動いていきやすい。ちょっとやばいなという気がする。『国を守るためには』という言葉にアレルギーを感じるんです。そういうことを言い出したら、それはもう戦争なんですよ」【聞き手・林尚之】

 ◆仲代達矢(なかだい・たつや)1932年(昭7)12月13日、東京都生まれ。俳優座養成所を経て、55年に俳優座入団。79年に退団。75年から妻の演出家宮崎恭子さんと無名塾を主宰。代表作は舞台「リチャード三世」「マクベス」、映画「人間の條件」「影武者」「乱」、ドラマはNHK大河「新平家物語」など。07年文化功労者、15年文化勲章。3月に無名塾公演「おれたちは天使じゃない」を東京・世田谷パブリックシアターで上演。