8畳一間に黒電話だけ-。吉本興業が東京・赤坂に初めて拠点を構えたのが80年。当時のスタッフの1人が大崎洋会長だった。その大崎氏は、大阪の心斎橋筋2丁目劇場から、ダウンタウンを世に送り出した。

「やすし・きよし時代」から、師匠を持たないNSC(吉本総合芸能学院)出身の「ダウンタウン時代」へ。芸人が自分の腕と、自力で宣伝活動して得た名声を武器に舞台出演させる興行会社から、タレントを管理するマネジメント会社への移行。東京進出がその転機の1つだった。ただ「個人事業主」という芸人らの集合体であることも、「吉本ファミリー」とのスタンスも変わらなかった。

所属6000人が競い、芽が出た者を使う。劇場を多く抱えチャンスはある。芸人は個々に好感度をあげようとし、人脈を仕事に生かすべく競う。大崎氏がトップに立ち旧体制を一掃しても、個人の“営業努力”は必要。歌手、俳優と違い、話芸とキャラクターで勝負するだけに「人気」のバロメーターが分かりにくい。サービス精神は肝だ。

松本もこの日、テレビで言っていた。宮迫らが望んだ会見を開いても「その後でまた違う写真が出てくるかもしれん」。相手が反社会的勢力か、瞬時に判別できないとも指摘する。吉本が会見を開かせなかった理由の1つが、この「上塗り」を嫌ってのことだと思う。

タレントを磨き売り出す芸能事務所とは成り立ちも違う。契約書で固めず“遊び”も残す。外箱は新しくなっても、中身は変わらず、良くも悪くも、それが吉本だ。「自由」とは、裏返せばルーズで、脇の甘さにもなることを証明してしまった。【村上久美子】