笑いは裏切り「電波少年」つなぎ番組から伝説に

「進め!電波少年」などについて回想した日本テレビの土屋敏男氏(撮影・大井義明)

<この30年の芸能界を振り返る・平成プレーバック>

平成のバラエティーとして、視聴者の記憶に残る番組が日本テレビ系「進め!電波少年」シリーズ(92年~03年放送)だろう。無名の芸能人ながら「アポなしロケ」「ヒッチハイク」「懸賞生活」など常識を覆す企画の数々で、視聴率30%を超えるモンスター番組となった。

演出で自らも出演もした「Tプロデューサー」こと土屋敏男氏(62)が、幻の企画も明かしながら、電波少年と平成のバラエティーを振り返った。

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-1992年(平4)にスタートしたが、局内からの期待はゼロに近かった。

土屋 つなぎ番組ですね。ウッチャンナンチャンがフジテレビをやるんで3カ月休むと言われて。フジ最強時代。何でもいいからつなげ、松本明子と松村邦洋っているからって。(2人のことは)ほぼ知らなかった。

-番組コンセプトも漠然としていた。

土屋 その4、5年前に番組を失敗して、金曜の夜7時に1%台。他局のパクリだったんです。だからパクリだけはやりたくない。テレビが今までやったことのないものをやろう、ということだけは思っていた。

-放送前は全く注目されなかった。

土屋 制作発表を一応やったんですよ、会見場借りて。そうしたら取材に来た記者が1人。急きょ応接室に行って、松本、松村、オレ、記者、の4人で座って(笑い)。誰もマークしてなかった。

-「アポなしロケ」は手探りスタート。デザイナー森英恵さんにスタッフジャンパー制作を依頼するが…。

土屋 最初に行ったとき森英恵さんがいないんですよ。その「いない」状態を放送するとゲストから「いないで終わるな」と言われました。

-予定の3カ月は、意外な形で延命する。

土屋 8月の雨の日、麹町のタクシー乗り場で前に並んでいた当時の制作局長かな。「ウチの息子が今、日テレで一番面白い番組を聞いたら、電波少年って言うんだ。息子がそう言うから、もうちょっと続ける」って。偉い人の息子のおかげで延命したんです。

-だが、型破りな企画が徐々に浸透し、視聴率が上向く。

土屋 それまでのバラエティーはタレント主導。でも電波少年は、松ちゃん(松村)に(渋谷の)チーマーや、深夜のカーセックスを注意に行かせて、カメラは車に隠れる。つかまって説教されているところを「松村ガンバレ」といって、カメラは離れていく。タレントさんが作る笑いじゃなく、ロケ側で作る笑いを意識してましたよね。そういう位置関係は新しかった。どこか「(天才たけしの)元気が出るTV」で開発したものかもしれないけど、もっとタレントさんを、ぞんさいに扱ってましたよね。

-松任谷由実ら著名人の豪邸トイレを借りにいく企画では、収録中に松村が脱糞するなど、テレビでは前代未聞のハプニングも絶えなかった。

土屋 「豪邸ウンコ」なんかその極みでしょうね。下剤飲ませて、便意が来たらロケ開始(笑い)。

-企画会議も型破りだった。「幻の企画」を明かす。

土屋 作家に、他の番組でボツになったのを持ってこいと言う。改修して、こうやりゃ面白いじゃないか、と。結局できなかったけど「ジャンボ尾崎の優勝パターを松村が足で止める」とかありました。

-汚職政治家、マフィア、果てはアラファト議長ら海外要人にも、アポなしで突撃した。

土屋 おちょくると言ったら上目線だけど、やんちゃ、というか。「しょうがねえなあ」と言われたい。

-視聴率が上がっても、社内から厳しい声もあったという。

土屋 逃げまどうわけですよ。人と目を合わすと何か言われるから、なるべく会社にいないようにして、会社からの電話に出ない。よく例えてたのは、町の真ん中にメジャー番組があるとしたら、僕らは「町外れの孤児院」。(王道を行く気は)さらさらない。

-96年には猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」が始まる。

土屋 松本、松村でも面白い番組作れたから、無名でも企画が面白かったらいけるんじゃない、というのが猿岩石のスタートですね。半年間帰って来れない、だから、無名じゃないと(候補が)いない。それは「(世界の果てまで)イッテQ!」のイモト(アヤコ)にもつながってると思うけど。

-猿岩石にも批判の声はあった。

土屋 見たことないやつの、どういうことか分からない(旅の)映像が1カ月流れているから、見方が分からない。「松村のアポなしが見たいから辞めちまえ」って、山ほど言われましたよ。でもだんだん面白くなって、ゴールで感動しているところで「次、南北アメリカ」って言ったら今度は1000本くらい抗議電話が来た。

-途中には撮影が困難な地域もあったため、ヒット企画ならではの社会的騒動も起きた。

土屋 戻ってきて「猿岩石 飛行機乗っていた」って、新聞で出るんですよ。そういうことなんだ、と思って、究明特番をやるんですよね。VTRを発見して再生すると、ヒッチハイクのはずが、猿岩石が飛行機に乗って機内食を食っている。「プロデューサーを直撃した」と言って、僕が顔を伏せて出る。「確かに乗っていました」。声が変わっている。だんだん普通の声に戻ってくると、ヘリウムを出して吸って声を変える(笑い)。

-こだわった「笑い」。土屋氏のポリシーとは何なのだろう。

土屋 取れないなという球を取れてこそ、バラエティーだと思っているから。打ち返さないで「すいませんでした」とは謝らない。すると「こいつら、怒ってもしょうがない」となるんです。笑いって、やっぱり裏切りですから。裏切らなかったら笑いにならないですからね。

-そんな電波少年シリーズも03年、10年半の歴史に幕を下ろす。

土屋 僕が編成部長になって、電波少年を土曜の1時間番組にして、「3カ月で平均13・5%いかなかったら終わらせる」って言ったら全然いかなくて。「自殺」なんですよ。テレビ史上わりと珍しい終わり方で、自分は納得のいく終わり方だった。社長には怒られましたけど。

-騒動は多かったが、打ち切りにはならなかった。

土屋 始末書は1回も書いてない。前科もないですよ。謝りに行っただけ。我々は「初期消火」と呼んでいたんですけど(笑い)。なるべく現場で消してくる。炎上しちゃったら、もう消せない。燃え始めた時に「スイマセン、スイマセン」って。モットーは初期消火。

-番組終了で、肩の荷が下りた部分もあったと明かす。

土屋 10年半ヒリヒリしながらやっていたから、正直ホッとしたというのはある。だって、(懸賞生活の)なすびは食ってるか分からない、旅してるヤツはいる、スワン(ボート)こいでるヤツはいる。時差があるから24時間、何が起こるか分からないわけです。

-電波少年から30年。バラエティーも変化し続けた。今のテレビをどう見ているのだろうか。

土屋 当時あった(表現の)ストライクゾーンで、僕はコーナーギリギリ。半分、時には全部出ていたかもしれない。でも電波少年だから、これは笑うモノって許されていた。それが法律が変わったわけでもないんだけど、みんながコーナーを狙わなくなった。それで現在のストライクゾーンはかなり狭くなった。自主規制というより、サラリーマンだから、偉くなりたいんですよ。コーナーをついてゾーンから出ちゃったら、問題になることもあるから。

-狭まったテレビのストライクゾーンは、ネットの影響もあるのだろうか。

土屋 乳首が出たら自動的にアカウントが停止するサイトもある。自動化されることで、表現はすごい制限される。「目視」しなきゃいけないんですよ。人間が決めなきゃいけないんだけど、みんなビジネスでやろうとしている。テレビもラジオも映画もいまだに生き残っているのって、面白いことをやろうとしているから。もうけだけでやると、面白いものがなくなっちゃう。

-乳首はテレビでも、ほぼ見られなくなった。

土屋 もう十何年くらい。おそらく自主的な規制。最後の乳首は志村(けん)さんの「バカ殿」説がある。1回出なくなったものって、復活できないですよね。でも、フジテレビの「A女E女」(97~98年)だけ、局地的に頑張った痕跡がある(笑い)。

-電波少年のように激しいバラエティーは、もうできないのだろうか。

土屋 AMAZON PRIMEでやっている松本人志の「ドキュメンタル」とか、ド下ネタだったりするわけですよね。でも松本がやるから、「これはアリ」となるわけですよ。電波少年もネットではできるかもしれないけど。ただ、今、自分で背負い込む気はないです。

-今、バラエティー製作者に伝えたいことは。

土屋 テレビって「今」のモノですから。「昔は良かった」が一番ナンセンス。テクノロジーが変わっているわけだから、新しいコーナーやストライクゾーンは絶対ある。逆に言うとそこをやらないと、テレビは終わる気がします。「最近似たようなものばかり」と言われるのが、一番危ない感想だと思うんですよね。【大井義明】

◆土屋敏男(つちや・としお)1956年(昭31)9月30日、静岡県生まれ。79年日本テレビ入社。ワイドショーを経て、「天才たけしの元気が出るテレビ」「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」などバラエティー番組を担当。電波少年では「Tプロデューサー」、編成部長就任後は「T部長」として出演。現在は日テレラボ・シニアクリエイターとして、64年の東京を仮想現実で再現する「1964 TOKYO VR」を手がける。