船場太郎氏、木村進さん悼む「新喜劇に新しい風」

北川イッセイ候補(右)の応援演説で、「地方分権のためには大阪に自民党の議席が必要」と力説する船場太郎氏(04年7月)

腎不全のため、19日に68歳で亡くなった元吉本新喜劇の看板座長、木村進さんとともに新喜劇の「二枚目俳優」と呼ばれた元大阪市会議員の船場太郎氏(79)が21日、取材に応じ「残念」「寂しいですね」と繰り返した。

新喜劇時代は「せん、ばたろうです」と自己紹介するギャグなどでわかせた船場氏は、後輩の木村さんに「新喜劇に新しい風を吹かせた」と感じていた。

「ギャグの間、呼吸とどれをとっても、すばらしい芸人やったね。吉本新喜劇にはいないタイプでした」

祖父に初代博多淡海、父に2代目淡海、そして自身は3代目の襲名興行中に脳内出血で倒れた木村さんは、16歳で淡海劇団に入り、喜劇役者としての素地を作った。松竹新喜劇で、故藤山寛美さんとタッグを組んだ父に反発し、19歳でライバルの吉本新喜劇へ移ったがすぐに頭角を現し、23歳の若さで座長に就いた。

先輩の船場氏も、若き木村座長の才能は刺激になったという。ただ、80年代半ば以降の世代交代の波にのり、木村さんは「3代目淡海」を襲名し、全国へ興行に出て、最終地の故郷・福岡で倒れた。

船場氏は当時を振り返り「進が倒れた後、代わりに九州を回ったことがあってね。『半分、体が動かんようになった』と聞いて、もう…。立ち直ってくれ、と願いながらやった。まだ若かったからね、若かったから」。左半身にまひが残り、車椅子生活になった木村さんを思い、語った。

その船場氏は91年に都島区から市議選に出馬。6期24年市議会議員を務め、途中、市議会議長も担った。道は別れたが、後に“再会”。木村さんは倒れた後、船場氏が選出された都島区で暮らしており、船場氏は「人づてに聞いて、市営住宅に入ってもらってね。地元で2回か3回、会うたんやけどね」と振り返った。

木村さんは盟友間寛平のサポートもあって、95年の阪神大震災後に、再起を決意。その後、木村進劇団を立ち上げ、車椅子ながら殺陣も演じて、慰問公演も重ねていた。

船場氏は原哲男さん、山田スミ子さんら近年、相次いでかつての仲間を失い「寂しいことばっかりや。周りの人がほとんど亡くなっていく…。寂しいですね、寂しい。残念…」と肩を落としていた。