【復刻】梅宮辰夫さん俳優人生や家族への愛など語る

「日曜日のヒーロー」(2018年3月4日紙面より)

俳優梅宮辰夫さんが12日午前、神奈川県内の病院で亡くなったことが分かった。81歳。

梅宮さんは18年3月4日掲載のインタビュー「日曜日のヒーロー」で、日刊スポーツの取材に俳優人生や家族への愛などについて語っていた。

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日本映画が黄金期だった昭和時代に、看板スターとして一時代を築いた。俳優梅宮辰夫(79)。今月15日には都内で「生誕80年・芸能生活60年」を記念した初のディナー&トークショーを行う。「自分は残り少ない昭和のスターの生き残り」と語る。ならばと、俳優人生を振り返ってもらい、昭和と平成の俳優像の違いや、家族への惜しみない愛情などを聞いた。

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「昭和生まれの昭和育ち。頑張ってきた映画俳優が、まだ1人残っているというところを見ていただきたい。頑張っている、というよりも、まだ生き残っているという感じかな(笑い)」

15日の一大イベントへの意気込みをこう語った。もちろん謙遜もあるが、今月11日には80歳になる。「年が傘寿で芸歴は還暦。まるでお盆と正月が一緒に来たような気分だ」という。

梅宮の背中を押しているのは、残された者の「使命感」だ。同じ銀幕スターだった松方弘樹さん(享年74)や渡瀬恒彦さん(同72)らが昨年、相次ぐように亡くなった。

「松方が死んでしまって、心に穴があいたというかポッカリと空白ができちゃった。『おい、今、何をしているんだ』って気軽に電話をできる相手がもういない。松方や渡瀬、山城新伍、菅原文太ら身近な仲間が全員いなくなっちゃったから。寂しいね…」。

昭和を彩ったスターの生き残りとして「あいつらの分まで、今、できることを何でもしておきたい」という思いが強い。今年1月には主演映画などの楽曲を集めたアルバムを発売。その中では、往年の大スター鶴田浩二さん(享年62)の三女の女優鶴田さやか(57)とのデュエット曲「少し遠くて少し近くて」を収録した。89年発売の「純情物語」以来、約29年ぶりになる久々のデュエットだった。

映画やドラマで唯一無二の存在感を放つ大御所の1人だが、20歳で芸能界に入った当時は「1年くらいやろうかな…」という、腰掛け感覚だった。

医者の家の長男として生まれ、自然と医師を志していた。だが、大学の医学部受験に失敗。滑り止めだった日大法学部に入り、2年の時にスカウトされた。ダメモトの冷やかし半分で応募をしたら、約3万5000人からたった16人が選ばれる「東映ニューフェース第5期生」に合格。翌年には「少年探偵団 敵は原子潜航艇」でいきなり主演デビューを飾った。その後も「不良番長」シリーズや「帝王」シリーズ、「仁義なき戦い」シリーズなどに出演。気付けば日本映画の黄金期を支える1人になっていた。

日の当たる世界で華々しい活躍を見せた20代のころ、夜の世界でも「銀座の帝王」として知られた。「1週間の日にち(7日)よりも、交際する女性の数の方が多かった時もありました」と、モテモテだった当時を振り返る。

 そんな生活を一変させたのが結婚と病気だ。72年にクラウディアさんと2度目の結婚をして、同年に長女アンナが誕生。その2年後に肺がんが見つかった。病気は化学療法で克服したが、「自分はがんが多い家系だったし、『これは早死にをするな』と切実に思った。結婚したことも、子どもを持ったことも後悔したほど。だから、1分1秒でも家族と一緒に長くいたいと心に決めた」。1日4箱も吸っていたたばこをやめ、銀座通いからもキッパリと足を洗った。

今でいう「イクメン」の走りだ。仕事が終わると自宅に直帰。家事を全面的に引き受け、もともと好きだった料理にも腕を振るった。

「出演していた『前略おふくろ様』(75、76年)では毎回、板前さんを呼んで料理を作っていたから、そこで本格的に習ったんです。大学時代も剣道部で道場に住み込んで合宿生活。ご飯を炊いたり、みそ汁を作ったり、干物を焼いたりなんてのもやっていたからね」。

「家庭第一」を貫き続けて約半世紀。梅宮にとって家族の存在とは何かと問うと「癒やし」だと返ってきた。「家族という癒やしのために一生懸命、真面目に生きようとしなきゃという意識が生まれるんだ」と説明する。

現在、4人家族の中で一番の心の支えになっているのが16歳の孫娘、百々果さんの存在だ。01年に結婚をしたアンナが翌々年に離婚。当時の百々果さんはまだ1歳で、梅宮が「おれが父親代わりをする」と宣言。それから15年になる。クラウディア夫人もアンナも、梅宮を「じぃじ」と呼ぶが、百々果さんだけは「じっち」と呼んでいるという。

「ジジイはジジイだからしょうがないけど、『じぃじ』なんて呼ばれたくないよ。そこで、かわいく『じっち』と呼べと教えた。そう呼べば、おもちゃを買ってあげると言ってね。3歳くらいのころかな」

最近は、一緒にテレビを見ていて説教をされることもあるという。「自分が画面に向かって文句を言うでしょ。すると『じっち、それは違うよ。今はこういう時代なんだから、しょうがないよ』と言うんだ。この僕にだよ」。楽しそうに笑った。

梅宮の見立てでは、百々果さんには、まだボーイフレンドはできていないらしい。どんな恋人を紹介されるのか。“じっち”は今から気をもんでいる。「ピアスは嫌だし、タトゥーなんてとんでもない。僕の時代では、ピアスは不良性につながっちゃう。モモには『犬でいえばシェパードがいいぞ』って言っている」。孫の話になると、声のトーンが1ランクアップ。目尻も下げっぱなしだ。

孫娘には甘いが、昭和と平成の芸能界を比較してもらうと厳しい表情になる。「そりゃ、まるっきり違うよ。平成の芸能界は芸能界ではないと思っている」と言い切る。

梅宮が芸能界入りした当時、「映画俳優」は人数も少なく、近寄りがたい雲の上の存在だった。「芸能界には憧れや夢、希少価値がないといけない。昭和と比べたら、今は芸能人の数も、うじゃうじゃいるしオーラがない。近くに行って『よう、○○ちゃん』って言える人ばっかり。昔は恐れ多くて、そんなことはできなかった。強いて言えば、自分には今の芸能人はテレビ局の『放送要員』としか映らない。放送局の『スタッフ』と同じ。それだけですね」。

かなり辛口の言い回しだ。その背景には、「高根の花の芸能人」を長年にわたって貫いてきたという強い自負があるからだ。

2年前に十二指腸乳頭部がんで手術を受けた。だが、現在は自覚的な体調不良はないという。「車でいうと、新車もポンコツ寸前も外見的には、そんなに変わらないよ。でも下から見たら、サビがあったり、穴が開いていたり…。それと同じ。20歳と80歳が同じ体であるわけがないからね。もうすぐ80歳ですから」。

車に例えて「ポンコツ寸前」という表現を使いながらも、俳優として枯れるつもりなんて毛頭ない。「これからも、さらにひと花もふた花も咲かせてください」と伝えると、「別に咲かそうとは思わない。花は咲かせなくてもいいけど、葉っぱだけは落ちたくないね」と続けた。そこには「昭和のスター」としてだけでなく、平成の名バイプレーヤーとしても輝き続ける存在感があった。

「読者に最後にひと言メッセージを」。そう求めると、こう答えた。「昭和の映画俳優、いまだ健在。そう記事に書いてください」。その言葉通り、梅宮辰夫は健在だ。

※年齢などは当時