【復刻】槇原容疑者、留置場での“反省”語っていた

05年、「日曜日のヒーロー」の取材に応じた槇原敬之

歌手槇原敬之(50)が13日、覚せい剤取締法違反(所持)と医薬品医療機器法(旧薬事法)違反(所持)の疑いで警視庁組織犯罪対策5課に逮捕された。

槇原容疑者は99年8月に覚せい剤取締法違反で逮捕され、同年に懲役1年6月(執行猶予3年)の判決を受けた。その約6年後には、日刊スポーツの「日曜日のヒーロー」のインタビューに応じ、逮捕や留置場生活をきっかけに音楽が「ライフワーク」へと変わり、「世界に一つだけの花」が生まれたと告白。「今、朝起きて生きていることがすごく幸せでカッコイイことだと思う」と、再起への思いを語っていた。

 

以下は05年掲載の槙原敬之容疑者の「日曜日のヒーロー」。

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 そのまま押しつぶされてもおかしくない試練を、こやしに変えて、輝きを取り戻した。シンガー・ソングライター槇原敬之(36)。絶頂期に自ら転落したドン底で、何を考え、どうはい上がってきたのか。デビューから15年。再び音楽界のトップに到達するまでの山あり谷ありの歩みを語り尽くした。

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 ♪NO・1にならなくてもいい もともと特別なオンリーワン−。SMAPに書き下ろした「世界に一つだけの花」。先日発表されたNHK「スキウタ〜紅白みんなでアンケート」の中間集計でもトップになった。世に出てわずか3年だが、すっかり“国民曲”になった感がある。

 「僕が歌っていたら、こんなに売れなかったと思います。僕はいろいろあったし、偏見という目を感じるときだったと思うんですけど。自分という人間が歌うことで、この(曲の)考え方が汚いものだと思われるのは、耐えられない。そういう意味では、清潔感があって人気者のSMAPに歌ってもらえば、聞こうと思ってくれる人がいっぱいいるだろうと思って。願いをこめて託しました」。

 「NO・1よりオンリーワン」という言葉は、知人から聞いて感動し「いつか歌にしよう」と温めていた言葉だった。

 「くしくも、周りで『○○の奥さんがエルメスを着ているから、私もエルメスを着なくちゃ』とか、オンリーワンでない考え方がまん延していて、痛々しく思っていたんですね。そういう人たちに育てられちゃうと、子供も絶対、そうなるわけで。そういう子供が未来をつくっていくのなら『そんな未来は嫌だ』と正直、思うんですね」。

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 そんな大輪の花を咲かせる3年前の99年8月。覚せい剤所持の現行犯で逮捕された。22歳で「どんなときも。」が100万枚を突破し、音楽界のトップを走っていた。全国ツアーは中止。当時所属していたソニー・ミュージックエンタテインメントは、全CDを店から回収し、出荷停止にした。実家の両親もマスコミに追われた。

 警察の留置場では4人部屋だった。中には同世代の人もいた。彼らから「槇原さんがこんなところにくるなんてビックリした。若くして成功して苦労がない人だと思ってたからさ」と言われた。その言葉にハッとした。

 「彼らからみると、そういう順風満帆にみえる人の歌を聴いても『どうせ、おれたちの痛みなんて分からない』みたいなものがあるのかな」。

 それまでは作詞、作曲、アレンジなどをすべて1人でこなし「人の手はいらない」との感覚に陥っていた。閉ざされた空間。自殺予防のため、手紙を書くとき以外、自由に鉛筆を持つことも許されなかった。その中で毎日「何が正しいことか、何が間違っていたか」を考え続けたという。自己分析、両親、周囲の人のことも考えるうち、内面で化学反応が起きた。

 「人の気持ちに触れようと思うことって、それまでなかったんですね。あの事件があったおかげで『僕は僕だけで生きてるんじゃない』『僕の歌を本当に聴いてほしい人に歌が届いてない』ということに気がついて。そこでまた、曲作りにボッと火がついた。これからは、サウンドとかじゃなくて、何が言いたいか、だって。それから、また曲作りが楽しくなりました」。

 音楽は「食っていくもの」だったが、「ライフワーク」へと変化した。

 「歌が、人の心の中で、本当の意味で必要なものでありたいと思ってから、急にすべてが変わりました。だからこそ、SMAPの歌が書けたと思う。昔、ああいう曲を書いていたら、何となく大義名分を振りかざした、流行で終わってたと思う。でも、今は心からそう思うし」。

 公判では、検事が「僕もあなたのCDを何枚か持ってます。聴くと元気が出ますよね」と発言した。法廷での異例の発言に、槇原は「僕もびっくりした。しかと受け止めて頑張ろうと思った」と振り返る。逮捕から4カ月後に判決が出た。懲役1年6月、執行猶予3年。だがその直後に別のトラブルも起きた。当時の個人事務所の社長が、1億円を横領していたことが発覚した。周囲は「もうこれ以上スキャンダルは嫌だから」と告訴などしてことを荒立てないよう、槇原を説得した。だが、槇原はあえて法廷闘争に踏み切った。

 「これから歌っていく上で『正しいことは正しい。間違っていることは間違ってる。それが分かることだけでも財産』ということを伝えていくのに、スキャンダラスなことを言われるのは嫌だからと、その人のやった悪いことをなしにしたとき、僕の歌はうそになりますから」。

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 現在は、昨年成功したオーケストラと共演するコンサート「セレブレーション2005〜ハート・ビート」に再び挑んでいる。テーマは「今、生きていることに感謝して、生きていることを祝おう」。オケ、合唱の約200人が一斉に音を奏でる壮大な舞台だ。

 昨年、同コンサートをDVDで見た12歳の少年から手紙を受け取った。「1つひとつの楽器がコラボレーションをして音を出す。すごいことだと思います。僕は病気で行けないけど、頑張ってください」。その少年は白血病と闘っている。槇原は最近、少年の病室を訪れた。少年は「病気になってよかったと思う。おかげで周りの人のすごい優しい気持ちに触れることができたから」と話した。少年は槇原の音楽が大好きで、詩も書き始めたという。

 「その詩がすばらしいんです。そして『早く元気になって、絶対に一緒に仕事するからね』って。その子に会ってから『音楽はだれかのための希望でなければならない』と思ったし『この子の方がよほど生きる意味を考えようとしているな』と。励ましにいくつもりが、こっちが励まされました」。

 5歳からピアノを習い始めた。大の練習嫌いだったが、母親は「いずれ何かの役に立つかもしれないから」と高校まで続けさせた。母親は、現在も大阪府高槻市で父親と電器店を経営している。資金繰りで大変な時期もあったが、子供には商売のすべてを見せてきた。最近、母親が韓流スターにのめりこんだことが「心からうれしい」と話す。リュ・シウォンとイ・ビョンホンのファンで、電話をすると、母親が「アンニョンハセヨ」と韓国語で出ることもあるという。

 「ずっと働きづめの人生でしたから。僕が『どんなときも。』が売れたときも、そういうのは親の安心じゃないのかもね。自分で大変な時期をつくってしまって、1回、ダーンとマイナスに行って、でも今、上がったのをみて、やっと根性を認めてくれたというか。安心してくれてるみたい。うちの家族のいいところは、明るいところ。しょんぼりした1時間よりも、シャレでもまじえながら悩みながらの1時間をみせてくれたりしていたので。楽天的な性質をすごく受け継いでいます」。

 話している間、目はまっすぐにキラキラしていた。「今、朝起きて生きていることがすごく幸せでカッコイイことだと思う」。試練を乗り越え、こやしにした今、目の前の小さな幸せを大切に感じている男は、最初の絶頂期とは違う槇原敬之だ。

(2005年10月23日 紙面から)