解散決めた石原軍団、商号を裕次郎さん墓前へ返還

14年7月、故石原裕次郎さんの二十八回忌に出席した、前列左から神田正輝、石原まき子夫人、渡哲也、舘ひろし、後列左から金児憲史、池田努、宮下裕治、徳重聡

石原裕次郎さんが1963年(昭38)に設立した石原プロモーションが来年1月16日に看板を下ろす。裕次郎さん34年目の命日に当たる17日、石原プロが発表した。渡哲也(78)舘ひろし(70)神田正輝(69)ら俳優のマネジメントを行う芸能部門はなくなる。広く親しまれてきた「石原プロ」の名前は消え、「石原軍団」は解散し俳優はそれぞれの道に進む。

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石原プロはこの日、関係者、報道各社に、今後の方針を記したあいさつ状を送付した。来年1月16日に石原プロモーションの商号を「裕次郎さんの仏前に返還する」という表現で、58年にわたる歴史に幕を下ろすとした。著作権や版権管理、裕次郎さんの遺品管理は2つの法人が引き継ぐが、芸能部の業務、所属俳優の契約は終了する。固いきずなを誇る俳優集団、石原軍団は解散することになる。

関係者は「18日以降に臨時取締役会などを開いて、今後について詰めていく」と話し、現時点で俳優の今後について正式に発表できることはないとした。移籍、フリーでの活動などの方向で調整するという。

代表取締役会長で、裕次郎夫人のまき子さんは、あいさつ状で、石原プロの看板を下ろす決断に至った理由を記した。87年7月17日に亡くなった裕次郎さんの遺言が「俺が死んだら即会社をたたみなさい」だったが、俳優、スタッフがいきいきと働き会社に愛情を注ぐ姿を見て実行できなかったとした。しかし、まき子さん自身が高齢になり実務が難しくなったこともあり、周囲と相談し遺言を実行できたという。

まき子さんも俳優たちの今後を気に掛け「しっかり責任をもって対応してまいる所存でございます」と記している。

石原プロは裕次郎さんが、大手映画会社ではできない作品の製作を目的に設立、映画「黒部の太陽」「栄光への5000キロ」などスケールの大きな作品を製作し、ヒットさせた。「大都会」「西部警察」など、人気シリーズドラマも手掛けた。北海道小樽市の石原裕次郎記念館の運営や、被災地での炊き出しボランティアでも知られ、広く親しまれた。しかし、新たな世代のファンの掘り起こしは、長年の課題でもあった。

来年1月以降は、石原音楽出版社と一般社団法人ISHIHARAが版権管理業務、遺品の管理、保管業務を行う。石原プロの清算完了は来年12月だという。

<石原プロモーションの歩み>

▼1963年1月16日 石原裕次郎さんが設立、社長就任。社員9人スタート

▼同10月 石原プロが手掛ける映画第1作目「太平洋ひとりぼっち」公開

▼68年2月 映画「黒部の太陽」公開。観客動員733万人

▼69年7月 映画「栄光への5000キロ」公開

▼70年 映画「ある兵士の賭け」が興行的に失敗し、倒産の危機に陥る

▼71年 渡哲也入社

▼73年 神田正輝入社

▼76年 1月に日本テレビ系で、初めてドラマ制作を手掛けた「大都会 闘いの日々」放送開始。パート3まで

▼79年 テレビ朝日系「西部警察」放送開始。パート3、スペシャルまで

▼81年4月 裕次郎さん、解離性大動脈瘤(りゅう)破裂で入院、手術

▼83年 2月に舘ひろし入社。5月に創立20周年パーティー

▼84年 裕次郎さん、幹細胞がんの診断を受けハワイで静養

▼87年7月17日 裕次郎さん死去。渡が社長に就任

▼88年12月 日刊スポーツ映画大賞/石原裕次郎賞が始まる

▼91年7月 小樽市に石原裕次郎記念館オープン

▼95年2月 阪神淡路大震災被災地で炊き出し

▼99年7月 鶴見・総持寺で裕次郎さん十三回忌法要。20万人参列

▼00年8月 21世紀の石原裕次郎を探す「1億人の心をつかむ男」オーディションで徳重聡がグランプリ

▼09年7月 東京・国立競技場で二十三回忌法要。献花まで最大6時間

▼11年 渡が社長を退任、俳優業専念。まき子夫人が会長就任。同4月、東日本大震災被災地で炊き出し

▼16年6月 熊本地震被災地で炊き出し

▼17年8月 石原裕次郎記念館閉館

▼19年7月 三十三回忌で弔い上げ

▼21年1月 商号返還(予定)