<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>
3日に大阪・なんばグランド花月(NGK)で行われた、吉本興業110周年特別公演「伝説の一日」でステージに立ったダウンタウンの漫才をオンライン取材した。NGKは17年の「よしもとゴールデンアワー」のMC以来約5年ぶり、同舞台上での漫才は91年にビデオ「ダウンタウンの流」を発売する際に披露して以来約31年ぶりだった。
ダウンタウンには強烈な思い出がある。1990年(平2)にフジテレビの「オレたちひょうきん族」や「笑っていいとも」のプロデューサーを務めた、横沢彪さん(11年没、享年73)を囲む会があった。バラエティーの現場を離れる時だったと思うが、ベテランの放送記者ばかりの中、東京・新宿の京王プラザホテルの中華「南園」で話を聞いた。
おじさんの記者たちが昔話に花を咲かせるなか、横沢さんは記者に「今の若手のお笑いで一番面白いのは誰だと思う?」と聞いてきた。ドギマギしながら「ウンナン(ウッチャンナンチャン)でしょうか」と答えると、横沢さんは「東京なら、そうだね。でも、大阪にはダウンタウンというすごいコンビがいるんだ」と話してくれた。
前年から「笑っていいとも」の曜日レギュラーを務め、日本テレビでは「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の放送が始まっていた。そして、88年10月から始まったフジテレビの伝説のバラエティー「夢で逢えたら」でウンナン、清水ミチコ、野沢直子とともに最先端のお笑いを披露。同番組は深夜の関東ローカルから、土曜午後11時半スタートになり、お笑い好きの若者から人気を集めていた。
その後、松本人志(58)の浜田雅功(58)のダウンタウンはあっという間に超人気者になって天下を取った。平成のはじめの頃は、東京・築地で大阪日刊スポーツからやって来た先輩と居酒屋で2人で話していて「何でや、それ違うで」と言われると、店の他の客から振り返られるくらいだった。それくらい関西弁に違和感があったが、ダウンタウン人気とともに、関西弁が日常に溶け込んでいった。
記者はオンラインで取材した。NGKの現場に取材に行ったのは大阪日刊スポーツOBの三宅敏記者(63)。早期退職で大阪日刊を辞めたが、優雅にゴルフをしながら現場取材もこなしている。そう日刊スポーツも及ばずながら、歴32年の合計123歳のおじさん記者コンビで取材に当たったのだ(笑い)。同じ会社だったので現場で一緒になった記憶はほぼなく、築地の雀荘「竹」でばかり顔を合わせていた。徹マンでボロ負けして、そのまま一睡もせずに沖本姉妹の舞台「ピーターパン」の合宿取材に向かった三宅先輩の背中は、よく覚えている(笑い)。
久しぶりの三宅先輩との取材は、いろいろなことを思い出させてくれた。実は、築地の居酒屋で関西弁を話して振り返られたのは、90年から東京駐在だった三宅先輩だった。三宅先輩が大阪の社に帰った92年。俳優の勝新太郎さんが、亡くなった兄・若山三郎さんのお骨を抱いて京都の嵐山で花見をするらしいという情報がもたらされた。雲をつかむような話だが、取りあえず京都に行ってタクシーに乗って「勝新太郎が嵐山で花見をしているらしいのでお願いします」とあちこち回ったが空振り。
その晩、三宅先輩が飲みに連れて行ってくれた。名物のとん平焼きを食わせてもらいながら、いろいろな話をした。92年の話題と言えば、前年まで長らく低迷していた阪神タイガースが亀山努と新庄剛志(現日本ハム監督)の活躍で、春先に快進撃を続けて2位になった年だ。
酒が入っていたこともあって「笑っちゃいますよね、阪神が首位ですよ(笑い)」と口が滑った。その瞬間、背中に殺気を感じた。店中の人がすごい目でにらんでいた。
阪神が開幕9連敗の新記録を作る中、歴史ある吉本興業とダウンタウンを取材しながら、個人的な歴史を感じた夜だった(笑い)。