ビートたけし、タモリの才能を見つけた先生と飲んだ酒…お笑い界”聖地”イベントで思い出した事

五明拓弥(2014年2月撮影)

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

お笑いトリオ、グランジの五明拓弥(41)が、漫画家「ごめたん」として出版した運転免許合宿体験漫画「39歳の免許合宿~ストーリーは自分(てめぇ)で創れ~」(ワニブックス)の発売記念イベントを28日に取材した。

五明はCMプランナーとして数々の賞を受賞しているだけあって、漫画も面白かった。それ以上に189センチの長身でロン毛を頭のてっぺんで結び、アニメ「キン肉マン」に出てくるラーメンマンのようなルックスが気に入っていたのだが、6年前に切ってしまったのは残念だ。

で、問題はイベントの行われた東京・芳林堂書店高田馬場店だ。早大OBたちは、口々に「懐かしい」と振り返るが、そこは関係ない。

高田馬場の芳林堂といえば、東京のお笑い界にとって”聖地”とも言える場所なのだ。1978年(昭53)11月30日に、ブレーク前の漫才コンビ、ツービートの漫才リサイタル「マラソンギャグデスマッチ」の舞台となった場所だ。

毒舌のビートたけしが「こいつの兄貴は中学しか出てないんですよ。中学しか出てないのに、立派な暴力団の親分なんですから」とボケると、相方のビートきよし「なんてことを言うんだ! うちの兄貴はマジメだよ」とツッコむ。80年代初めに大ブームを巻き起こす毒舌漫才が既に完成している。

当時の記者は17歳。まだ、お笑いにはそれほど興味を持っていなかった。高田馬場へは、マージャン荘に通っていた。マージャン名人戦で優勝した漫画家の故福地泡介氏に声をかけられたりしていた。

では、なぜ記者が伝説のリサイタルを知っているか。それは、このリサイタルを主催した漫画家の高信太郎先生(77)と後年、新宿2丁目の飲み屋で意気投合して、愚痴交じりにあれこれ聞かされたからだ。

高先生は、今は亡き赤塚不二夫先生の遊び仲間グループで、新宿の「ジャックと豆の木」「ひとみ寿司」といった店で飲んでいた。そして、このグループはタモリという才能を見つけ、赤塚先生の庇護(ひご)の下、世に送り出した。

次に、高先生はビートたけしという才能を見つけた。演芸番組のコメンテーターを務め、現落語芸術協会会長の春風亭昇太の師匠、春風亭柳昇師の弟子で「我昇」の名前を持つ演芸通。あれこれ世話を焼いてリサイタルを開催し、ツービートは大ブレークした。

その後、高先生はビートたけしと縁遠くなった。96年に「ビートたけしの賞味期限」という本を出版した。直々に「出版発表会見に来い」と連絡があったので出かけたが、捨てられた者の恨みつらみが書き連ねられていた。

当時、記者は日本テレビの「お笑いウルトラクイズ」のロケ取材、2週間に1度の日本テレビ「スーパージョッキー」の生放送&収録、そして暇があればNHKそばの渋谷ビデオスタジオで行われていたフジテレビ「北野ファンクラブ」の収録に通っていた。

立場上、大変困ったことになったが、文句を言っても高先生は聞き入れはしない。場所を酒場に移して、ひとしきり文句を言うと、今度は若き日のタモリ、たけしがいかに素晴らしかったか。そして、一緒にすごした日々が、いかに楽しかったかを語る姿は、こちらまで楽しくなった。

この原稿を書くのに、もう1回話を聞こうと、横浜の自宅に電話を入れた。午後8時くらいだったが、奥さまが出て「ごめんなさいね。最近は、もうすっかり早寝になっちゃって。起こしましょうか?」と言われたが「安らかにお眠りください」と遠慮しておいた。

気が付けば、原稿に出てくる人も故人が多くなっている。今のうちに、いろいろ聞いておかなければ。そう思わせてくれた、五明の出版記念イベントだった。