放送作家前田政二氏(58)が、23日に大阪・交野の「星の里いわふね」で決勝が行われる関西お笑い界の若手の賞レース「第3回北河内新人お笑いコンクール」で企画・プロデュース、審査員長を務める。また、15、16日には東京・渋谷ヨシモト∞ドームで、原作・脚本、演出の「吉本養成所物語2~俺たちの卒業公演~」が上演される。1982年(昭57)にダウンタウンらとNSCに1期生として入学。漫才コンビ、銀次・政二として売り出しながら1年8カ月で解散。フジテレビ系「オレたちひょうきん族」で「何人トリオ」のメンバーとして活躍しながら、96年には作家に転向した。今に続く、お笑いへの熱い思いを聞いてみた。
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82年にダウンダウン、トミーズ、ハイヒールらと吉本の養成所、NSCの1期生として入所した。1期生中で、最初から注目を浴びていたのはトミーズのトミーズ雅(63)だった。
「入学式の時からカメラがいっぱい来てました。吉本が養成所を作ったからだと思ったら、そうじゃなかった。雅さんは新人王も取った、日本ジュニアミドル級1位の元プロボクサー。その人が、お笑いに転向っていうんで、たくさん写真を撮られて取材を受けていました。最初は今と違うコンビを組んでいたんですけど、うまくいかなくて幼なじみの健ちゃん(トミーズ健=63)を連れてきたんです」
ダウンタウンの松本人志(59)と浜田雅功(59)は暗かったと言う。
「2人とも、とにかくしゃべらない。誰ともしゃべらないんです。あのね、ダウンタウンのNSCでの初めてのお友達は僕なんですよ。僕はヤンキー(不良)だったんですけど、野球部もやってたし、面白い、ものまねのできるヤンキーだったんです(笑い)。1期生に入ってから、すぐに、いろんなやつと友達になってたんですよ。で、『NSC寄席』みたいなので、ネタができるやつは、ちょっとやってみろというのがあったんです。その時に僕は、ものまねの漫談を1人でしました。そしたら松本と浜田が出てきて、漫才を始めてめっちゃおもろかった。それまでは紳助・竜介が僕らの年代の笑い心をくすぐる存在だと思ってたら、もっと僕らに近い世代のことやっていた。『分かる、分かる』みたいなことをお笑いネタにして、爆笑しましたね。なんや、こいつら、と大ウケだったんですけど終わった瞬間に、また暗くなった(笑い)」
ハイヒールはリンゴ(61)がDJ志望でNSCに入ってきた。
「リンゴはDJ志望の現役女子大生だったんです。DJって言っても、今みたいにレコード盤回してミックスするのじゃなく、パーソナリティーやアナウンサーみたいにしゃべるやつです。吉本のNSCの1期生募集の広告に、DJにもなれるみたいな誘い文句があったんですよ。それにリンゴが飛びついて入ってきたんですよ。忘れもしない、入学式の時に、後に専務になる竹中功さんがいろいろ説明してたんです。分からないこと、なんか質問がある子いてるかって言うたら、僕の後ろにいたリンゴが『あの~』って泣きそうな顔で『私、DJになりたくて入ってきたんですけど、DJコースはどうなったんですか』って。竹中さんが『ええ、そんなんあったっけ』と言うてね。ほんでリンゴもどうしようかってなってたところに、NSCの初代校長の富井善則さん、最後は専務になられたんですけど。富井さんがどこからか知らんけど、モモコ(59)を引っ張ってきてね。何でか分からないんですけど『こいつ、おもろいヤンキーの女やねん』って。それで、西村、リンゴのことですが『お前ちょっと、こいつと組め』って言って。リンゴが京都産業大学の女子大生だったんですよ。現役女子大生とヤンキー娘で『なんか、ええやんけ』って言われてハイヒールの誕生です(笑い)」
前田は在学中の82年10月にうめだ花月でお笑いコンビ、銀次・政二でデビューした。1年8カ月で解散してピン芸人になって、世話になったのは、若こと明石家さんま(67)だった。
「若って、もうなんの迷いもなく呼んでいるのは、僕とジミーちゃん(ジミー大西)だけですね。最初はNSCの1期生として出会ったさんま兄さんでして、そりゃ尊敬しています。でも、兄さんっていう存在だけじゃなくなったんで。実際、若に『若のとこに弟子入りしたらダメですか』って聞いたことあるぐらいで。『ひょうきん族』の楽屋で若の衣装の着替えの手伝いや付き人のごとくお世話をしてた時に、昔から思っていたことでもあるので」
ピンになり、さんまファミリーの一員となって、四六時中さんまと行動をともにするようになった。
「まだ大阪にいたんですけど、若の関係でしょっちゅう東京にきていました。水曜日が東京のフジテレビで『オレたちひょうきん族』の収録。次の木曜日に違う若の番組があって、それに出てから金曜の朝一で大阪に帰って。ジミーちゃんと僕は、金曜日に大阪でレギュラーを持ってたんで。そんな感じで、毎週水曜木曜は東京にいる感じですね。フジテレビは、新宿の曙橋にあって、若も代々木の参宮橋に住んでました」
欽ちゃん劇団、たけし軍団などに続いて、さんまと後輩たちをさんまファミリーと名付けたのは前田だった。
「その後に芸能界に小室ファミリーとか、なんとかファミリーっていう言葉をはやらせたのは結局、僕らです。僕ら身内でさんまファミリーって広げてて、そしたらフジテレビの廊下を歩いてた時に、ちょうど研ナオコさんたちが歩いてきたんですよ。人気がすごい頃で、真っ黒のジャンパーを自分もスタッフ全員にも着させて軍団で歩いてはったんですよ。そん時、向こうから研さんが『さんちゃん、聞いたよ。なんか、さんまファミリーって言ってるんだって』って。若が『そうでんねん、こいつが付けました』って僕を。『ああ、そうなの。うちらも研ナオコファミリーって付けたらダメ』って聞かれて。『ああ、よろしいで』って、研さんが研ファミリーって言い出して。それが徐々に広がって、萩本欽一さんの欽ちゃん劇団も欽ちゃんファミリーに。それからファミリーが広がってますが、芸能界にファミリーという呼び名をを広げたのは僕なんですよ(笑い)」
(続く)
◆前田政二(まえだ・せいじ)1965年(昭40)2月23日、大阪府交野市生まれ。82年に吉本興業の養成所、NSCに1期生として入学。在学中の同年8月に漫才コンビ、銀次・政二を結成。同年10月にうめだ花月でプロデビュー。83年に「今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」大賞。84年4月解散。その後はピン芸人として活動。ドラマ、ビデオ映画、リポーターとしても活躍していたが、96年(平8)に放送作家に転向。著書は12年にNSC1期生が売れていくまでの実話の「ノーブランド」、15年に明石家さんまとの出会いから公私にわたる付き合いの「深夜ラジオとひょうきん族と-ラブユー貧乏たちとおバカな事件簿-」を出版。