「東京ブギウギ」笠置シヅ子…「女王」への道 服部良一とのコンビで敗戦の落ち込んだ日本に勇気

58年12月、長年コンビを組んできた笠置シヅ子(右)と作曲家の服部良一

<ニュースの教科書>

戦後の大スター笠置シヅ子(本名・亀井静子、享年70)をモデルとしたNHKの後期連続テレビ小説「ブギウギ」が、10月2日から始まる。作曲家・服部良一(享年85)と組み、「東京ブギウギ」「買物ブギー」など数々のヒットでブギの女王と呼ばれた。大阪仕込みのサービス精神で、エネルギッシュに歌い踊った。当時としては異色で、敗戦に沈んだ日本国民を笑顔にした。苦難と絶望を乗り越え、「東京ブギウギ」でブギの女王に駆け上がるまでを振り返る。(敬称略)

【笹森文彦】

■「コテコテ大阪弁」

笠置シヅ子は1914年(大3)8月25日に、香川県相生村(現・東かがわ市)で生まれた。実母は未婚で、半年後に大阪の亀井家の養女となり、4歳から日本舞踊を習った。13歳の27年(昭2)に、大阪の松竹楽劇部(OSK日本歌劇団の前身)に入った。歌と踊りを中心としたレビューで才能が開花。トップスターになっていった。

38年4月に東京・帝国劇場で松竹楽劇団の旗揚げ公演「スイング・アルバム」に出演。そこで音楽を担当していた服部良一と出会う。日本コロムビアの専属作曲家の服部は、ジャズなどを取り入れた作品で注目されていた。37年に「別れのブルース」(淡谷のり子)をヒットさせた。

稽古場で会った服部の第一印象は「コテコテの大阪弁をしゃべる、目をショボショボさせた小柄な女性」だった。それは舞台稽古を見て一変する。「3センチほどもある長い付けまつげの下の目はパッチリ輝き、私が棒を振るオーケストラにぴったり乗って、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は別格の感で、なるほど、これが世間で騒がれていた歌手か、と納得した」という。

服部はほれ込んだ。同じコロムビアの専属歌手となった笠置に、服部はジャズのセンスが光る「ラッパと娘」や「センチメンタル・ダイナ」などを提供。数々の出演映画もヒットし、笠置はスイングの女王と呼ばれるようになった。

■「動かず歌え」強要

しかし、戦時体制となり、洋楽は敵性音楽と見なされた。服部のジャズ音楽も排除された。笠置も誰もが直立で歌う時代に、激しく歌い踊るのは「戦意高揚をそぐ」と当局にマークされた。ステージのマイク周辺1メートルに白墨で線を引かれ、「その中で動かず歌え」と強要された。出演禁止にする劇場もあった。

そんな戦時中に、30歳の笠置は年下の早大生・吉本穎右(えいすけ=21)と出会った。お互い一目ぼれした。穎右は大阪で吉本興業を創業した吉本せいの次男。長男は他界しており、後継者だった。

戦時下で愛を育んだ。戦後の46年10月、笠置は妊娠を知る。穎右は、吉本家の理解を得た後の結婚を固く約束した。笠置は引退を決意して、身重ながら47年2月の日劇「ジャズ・カルメン」に主演した。しかし、帰阪していた穎右は持病の結核が悪化し、5月19日に死去した。24歳だった。臨月の笠置を心配させまいと連絡が遅れ、笠置は死に目に会えなかった。

13日後の6月1日、笠置は女児を出産した。遺言通り、穎右の「エイ」を取ってヱイ子と命名した。せいはヱイ子を引き取ると申し出たが、自身も養女で育った経験からシングルマザーとして生きると決めた。そして、子供を育てるためにも歌手継続を決意。服部に「先生、頼みまっせ」と新曲を依頼した。

戦時中の暗い束縛から解放された服部は、アメリカ生まれの陽気なブギを新曲に選んだ。それが「東京ブギウギ」だった。笠置は出産から3カ月後にレコーディングした。服部は「ブギは、体を揺らせてジグザグに動いて踊りながら歌うんだ」と説明した。笠置は仕事場の控室に子供を寝かせて、歌い踊った。

朝ドラ「ブギウギ」の風俗考証担当で、近代日本史(昭和歌謡史)が専門の日大・刑部芳則教授は「落ち込んでいる笠置さんを再起させるためと、敗戦で打ちひしがれた日本国民を勇気づけるために、服部さんは明るいブギのリズムで作品をつくった。日本になかったメロディーに乗って、笠置さんが躍動感あふれる歌い方をして、日本の音楽のイメージチェンジを果たした。二人三脚の功績は大きい」と語る。

コロムビア・クリエイティブのプロデューサー衛藤邦夫氏は「笠置さんはポップスシンガーの原点。一般大衆が洋楽に接する機会がまだなかった時代に、洋楽的なセンスを持って、洋物と感じさせず、リズムとテンポ感を兼ね備えた音楽を定着させた」と評した。

笠置は以後、服部とヒットを連発。ブギの女王として、戦後の大スターへ駆け上っていくのである。

【参考文献】「僕の音楽人生」(服部良一著、日本文芸社)、自伝「歌う自画像 私のブギウギ伝記」(笠置シヅ子著、北斗出版社)、「『笠置シヅ子の世界』の魅力」(刑部芳則著)、アルバム「笠置シヅ子の世界~東京ブギウギ~」解説文

■笠置シヅ子アレコレ

笠置には数々のエピソードがある。アレコレを紹介する。

◆改名 27年のデビュー時は「三笠静子」。35年末に昭和天皇の末弟が三笠宮家を創設したのに伴い「笠置シズ子」に改名。57年の歌手引退を機に「笠置シヅ子」とした。

◆黒澤明監督 48年の映画「酔いどれ天使」の劇中歌「ジャングル・ブギー」を監督が作詞した。笠置は歌手役で出演。三船敏郎と木暮実千代のダンスシーンで歌い、存在感を示した。

◆ご当地ソング 当時のご当地ソングは新民謡と呼ばれていた。笠置は「東京ブギウギ」を筆頭に「博多」「北海」「大阪」「名古屋」「伊東温泉」「ハワイ」などブギで歌った。戦後の都市復興も目的だった。

◆NHK紅白歌合戦 第2回(52年)に初出場し「買物ブギー」を歌唱。第3回は「ホームラン・ブギ」で紅組トリ。第4回は「東京ブギウギ」。第7回は大トリで「ヘイヘイブギー」。翌年に歌手引退した。

◆美空ひばり デビュー前、笠置のものまねで「豆ブギ」「小型笠置」と言われた。笠置の前座も務めた。デビュー曲は「河童ブギウギ」だった。

◆歌手引退 43歳になる57年に「自分の一番いい時代を自分の手で汚す必要はない」と歌手を廃業。以後、女優に専念し、鼻歌も歌わなかった。洗剤「カネヨン」のCMは有名。

◆4年連続トップ10入り 日本音楽著作権協会(JASRAC)の国内の著作権使用料分配額で、「東京ブギウギ」は12年度から4位、4位、5位、8位。現在も続くアサヒビールの「クリアアサヒ」のCM効果が大きい。12年度のベスト3は「ヘビーローテーション」などすべてAKB48。

◆死去 85年3月30日にがんで死去。70歳。墓所は東京・永福の築地本願寺和田堀廟所。法名は「寂静院釋尼流唱」。同墓所には、服部良一も眠っている。

○…日本コロムビアでは7月に41曲収録のCDアルバム「笠置シヅ子の世界~東京ブギウギ~」(税込み3300円)を発売した(表参照)。服部がほとんど作曲編曲し、17曲は服部の作詞作曲。作詞はほぼ「村雨まさを」名で書いている。11月3日にはLP「笠置シヅ子の世界 ベスト」(同4400円)を発売。アナログレコードならではの音色で当時がよみがえる。

また笠置の自伝「歌う自画像 私のブギウギ伝記」(宝島社、税込み1540円)が15日に復刊した。ドラマに音楽に書物にと、笠置の再注目は必至だ。

○…NHK連続テレビ小説「ブギウギ」は、笠置をモデルに、戦後を明るく照らしたスター歌手の生きざまをフィクションで描く。ヒロイン花田鈴子を趣里(32)が演じる。服部良一がモデルの羽鳥善一役は草なぎ剛(49)。ヒロインの最愛の人・村山愛助役は水上恒司(24)。番組の音楽は、服部良一の孫の服部隆之氏(57)が担当する。趣里は歌唱者の1人として主題歌「ハッピー☆ブギ」も歌う。10月4日から配信される。

◆笹森文彦(ささもり・ふみひこ)札幌市生まれ。83年入社。主に文化社会部で音楽担当。ブギの笠置さん以外にも女王は多い。淡谷のり子さんはブルースの女王、渡辺はま子さんはチャイナ・メロディーの女王、坂本スミ子さんはラテンの女王。美空ひばりさんは歌謡界の女王である。