星野源、能登半島地震発生翌日ANNを生に切り替え「一緒に過ごした時間」で心つないだ

星野源(2021年撮影)

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

シンガー・ソングライターの星野源(42)が2日、ニッポン放送で放送された「星野源のオールナイトニッポン」(火曜深夜1時)を急きょ、生放送に切り替えた。当初は「僕も、お正月お休みと兼ねて収録放送というのもあったので」(星野)と、23年末に収録した「星野源アワード2023」を放送予定だったが、前日1日に石川県で能登半島地震が発生したことを受けて、星野が自ら志願して生でオンエアした。番組をオンタイムで聴きながら、腹を決めて英断を下した星野に拍手を送りたい気持ちになった。

星野は冒頭で、リスナーから「普段通り、やっていただきたい」というメールが「ものすごい来ている」と明かした。その上で「今日、多分、くだらない放送になる部分も全然、あると思います。全然、そういうメールください。いつもの感じのメールくれて大丈夫です。なので、う●ちとか、ち●ち●とか全然、送って良い。全然、待ってますし、普段通り」と、下ネタを交えた、いつも通りの番組のテイストで放送すると重ねて説明した。

大災害が発生した中“普段通り”に放送するか否か…公共の電波を使って放送する局が苦悩するのを、目の当たりにしたことがある。それは2011年(平23)3月11日に発生した、東日本大震災の時だ。記者は発生当日、文化放送で取材を終え、最寄り駅のJR浜松町駅のホームで原稿を書いていた中、震度5強の激しい揺れに見舞われた。その後、大ホールが崩落した東京・千代田区の九段会館に向かい、救助された方が救急車に担ぎ込まれ、搬送されていく様子を、至近距離から目視した。その後、現場で、その方が亡くなったと聞き、がくぜんとした思いを抱えて被災地・東北に向かった。

津波で壊滅的な被害を受けた宮城県の南三陸町をはじめ、被災地を回り、避難所を取材していく中で、公共放送であるNHKが「アンパンマンのマーチ」を流し始め、子どもだけでなく大人の心にも勇気と力を与えているのを目の当たりにした。一方で、地元の民放局を取材すると、震度7の直撃を受けた直後から震災報道特別番組を放送する中で、局内でも音楽を流していいのか議論したと聞かされた。

発生当初、放送中に音楽はかけなかったが、発生から2日後の13日から音楽を流した。ただ、午前9時から1時間に1曲しかかけなかった。その中、担当者のツイッター(現X)に、交流のある歌手たちから「被災者の皆さんを勇気づけられるなら、流して」とリクエスト曲付きの投稿があったという。

発生直後は、リスナーからのリクエストも1日20件程度だったが、2週目になると約300~400件と増えたという。担当者は当時「最初は『上を向いて歩こう』などのバラードが多かったですが、被災者のニーズが癒やしから前進へと変わってきた」と、発生から時間がたつにつれて、音楽を欲するようになっていったと語った。

東日本大震災という未曽有の震災に直面した当時、恐らくはエンターテインメントに関わる全ての人が、どのタイミングでエンターテインメントを発信して良いか悩んでいたに違いない。映画を取材のメインフィールドに置く記者の元にも、被災地で取材していると知ってか知らずか、映画各社から問い合わせが相次いだ。「東北の映画館は被災していて当面、上映は出来ないにしろ、全国公開のタイミングは、いつがいいと思うか?」「映画の中に津波のシーンがある。カットはし難いが…しばらく公開は見送った方が良いか?」など、かなり踏み込んだ見解も求められた。

星野も、2日の放送の中で「会議中にすごいたくさんメールを頂いて。今日、被災地に避難されている方からのメール、たくさん読むと思います」と話し合いをしていたこと、その中で被災地発のものを含め、たくさんのメールが届いたと明かした。被災したリスナーからのメールも紹介したが「やっぱり、すごく怖くなったし、ニュースで見ている感覚と全然、違う感覚の言葉っていうものが、自分の中に入って来て、一気にリアリティーを、ですね…」と被災地の現実を痛感したと語った。

記者は、東日本大震災の被災地を取材していた中で、何度も余震に遭った。その中には、東京で実際に味わったのと同じ震度5もあった。2016年(平28)の熊本地震の時は、同4月14日に発生した1度目の震度7の地震を受けて、翌15日に現地に飛び、益城町でがれきの中から地震発生から6時間後に発見された赤ちゃんと家族を取材。そして、熊本市内に戻った同日深夜に、2度目の震度7の地震の直撃を受けた。

震度7の揺れは、味わった人間にしか分からないだろう。記者は発生当時、取材に行くからと無理を言って泊めてもらった宿泊施設の7階にいたが、下からの猛烈な突き上げと、建物ごと持って行かれそうな左右の劇的な揺れを感じた。顔面に向かって飛んできたテレビを右手で払いのけた次の瞬間「きっと、建物はこのまま倒れるだろう…そうしたら、助からないな」と死を覚悟したものだ。

能登半島地震が発生した1日に、石川県輪島市の7階建てのビルが倒壊した写真、映像が大きく取り上げられた。驚きを持って受け止めた人が多かっただろうが、記者は熊本地震で自分が死を覚悟したほどの揺れを、7階建ての建物の中で経験していたから、厳しく、つらい現実として受け止めることが出来た。

星野が番組で、リスナーのメールを読んだだけでは「もちろん全然、それでも分かってないんだと思うんですけど」と語ったのは、その通りだと思う。記者にしても、東日本大震災を取材し、熊本地震では震度7の地震に遭うなどした経験はあるにしても、被災地で被災した人の本当の思いは絶対に分からない。あくまでも、その場にいて体感し、取材したというだけの話で、家も家族も失っていなければ、拠点を置く東京に戻れば日常生活に帰ることが出来たからだ。その思いは、取材していた当時から抱いていた。

そうした前提の中で、何を目的に取材していたか。それは、被災地で起きていることを自分の目で見て、耳で聞き、どうしたって迷惑はかけてしまうにしろ被災した方からお話を伺い、被災地の今を可能な限りリアルに、広く全国に伝えることで支援につなげたい…ただ、その1点だった。

一方で、メディアとしての無力さを感じたことも、1度や2度ではなかった。被災地の方のお話をどんなに丁寧に、気を使って伺ったにしても、心身に負った深い傷を、さらに深く掘ることになってしまう。かつ、こちらの報じたことが、その方の日常生活を即時に改善させるまでの即効性も、劇的な力も恐らくはない。東日本大震災の取材をしていた中、仙台市内で「メディアとは、どこまで無力なんだ…」と情けなくなり、涙が止まらなくなったこともある。

そんな我々メディアや、メディアが行った報道には出来ない、人々の心に勇気と生きる力を与えることが、しかも即時に近い形で出来るのが、星野のようにエンターテインメントを生業にする芸能人、著名人だ。しかも、マスメディアでありながら1人1人のリスナーの耳に直に語りかけ、伝えることが出来る特性を持つラジオで語れば、その力はさらに増すだろう。

星野は番組の中で「本当に、僕は無力というか、何も出来ることはないなと。そんな中で、出来ることは何だろうと思ったのが、今日の生放送ではあるんですけど。僕は、ちょっと皆さんの気を、そらせるとか、そのくらいしか出来ることはないかも知れませんが、今日、それを全力で…ある意味、無責任にやっていこうかなと思っています」と思いを語った。その言葉を聞いた時「無力どころか、あなたがやっている『ちょっと皆さんの気を、そらせる』ことこそ、僕らメディアには、なかなか出来ないことなんです」と心の中でつぶやいていた。

星野は「聴いていて、不安になったりする可能性もあると思います。でも俺、それでいいと思います。一緒に不安になりましょう。今日は、一緒に時間を過ごすというのが目的だと思います」と、生放送に切り替えた意図も説明した。その言葉には、心から納得できた。番組の最後で改めて語った、この日の放送の意義も、本当にすてきだった。

「時間をともにしているって、すごく大事だと思っていて。もちろん今、この時間、聴けない人もいると思うので、radikoのタイムフリーとか、そういうもので聴いている人も、一緒でいいです。今、一緒に聴いている人って、同じ時間を過ごしているんですよ。例えば時間軸が、ちょっと違ったとしても、同じだと思って良いと思います。同じ不安、良い意味でのくだらなさを共有することって大事…どんな感情でも。1人じゃないっていう感覚って、なかなか持つのは難しいし、頭で理由が分かっていても良く分からないじゃないですか? ラジオの1回の記憶って、何か知らないけど一生。残るんですよ。この時間…かけがえのないものだと思っていますし、一緒に過ごした時間も忘れないように今日も、明日も生きていこうと思います」

実際に被災していない…本当のところは分かっていないながらも、ラジオの力を信じ、シンガー・ソングライターとして自らの出来るエンターテインメントの力で、能登半島地震の被災者と全国のリスナーを1つにつないだ星野源。この日の放送を、記者として…そして東日本大震災当時、MCをさせていただいていた文化放送の小さな番組で、震災取材リポートを放送した1人の人間として、この先も忘れないだろう。【村上幸将】