<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>
人類史上前代未聞のコロナ禍が世界中を襲った2020年(令2)の秋。ようやく笑いが戻って来た、東京・新宿のルミネtheよしもと。
バックステージの座れば膝がぶつかるくらい狭い部屋で、2人の男に話を聞いた。丸く太って汗をかいているのが岩橋良昌。中肉中背で穏やかな笑みを浮かべているのが兼光タカシ。当時41歳の漫才コンビ、プラス・マイナスの2人だった。お笑い好きのデスクのリクエストで、日刊スポーツ本紙のインタビュー面「日曜日のヒーロー」に登場してもらったのだが、われながらいい人選だと思った。吉本興業関係者も、このリクエストを喜んで、褒めてくれた。
大阪・交野の高校の同級生だった2人は、ともに1浪して別々の大学へ入学。兼光は中華ファミレスチェーンのバーミヤンに就職の内定をもらっていた。そこへ、岩橋から、吉本の芸人養成所NSCへ誘われた。
岩橋が兼光に呼び出されたのは、故郷・交野のバーミヤン。「就職するところで断られるんだと思っていた」という岩橋は、承諾の返事をもらった。「自分がどれだけ通用するんやろうか」とOKを出した兼光は「就職の内定を断ってから、親に言った」と振り返った。「今までで一番大きなため息をついてましたけど、すぐにおやじが『お前がやりたいんやったらええ』ってね」と笑顔を見せた。
02年大阪NSC入所。同期は16年M-1王者の銀シャリと20年キングオブコント王者のジャルジャル。後の王者を尻目に、在学中はプラス・マイナスがトップを走った。NSC在学中の02年からM-1グランプリに出場した。
天狗(てんぐ)になって、気が付いたら売れっ子の銀シャリとジャルジャルは遠い存在になっていた。銀シャリがM-1王者になった時のことを、岩橋は「仲がいいんだけど、悔しさが勝ってしまった。ちっちゃい人間やなぁと自分で思ったんですけど」と振り返った。
兼光は「ジャルジャルの優勝は、僕は素直に喜べました。それこそ、ずっとコントをやってたから、もうええんとちゃう。優勝させてあげたい」と、得意分野の違う同期を祝福していた。
12年に思い切って、大阪から東京にやって来た。仕事もゼロからやり直し、給料も下がった。それでも、02年NSC首席の実力で、認められていった。
13回出場したM-1では、決勝進出はかなわなかった。それでもラストイヤーの18年、準決勝敗退者による敗者復活で、一番笑いと拍手が大きかったのはプラス・マイナスだった。救急車のサイレンが聞こえるアクシデントも笑いに変え、寒空の六本木ヒルズの大屋根プラザを揺るがせた。だが、視聴者投票では知名度に勝る若手に競り負け2位。念願のM-1優勝はかなわなかった。
その悔しさをバネにするまでもなく、プラス・マイナスは売れっ子になっていった。テレビで見かけることも多くなった。テンション高いツッコミの岩橋とハイスペックなものまねネタの兼光。正統派漫才は、どこへ行っても光り輝いた。
インタビューの2、3年前に岩橋とは、吉本興業本社そばのゴールデン街で一緒に飲んだことがあった。吉本関係者に誘われて3人で飲んだのだが、全く覚えていなかった(笑い)。インタビューからしばらくして、兼光から仕事先の地方の劇場からスマホに電話をもらった。吉本興業東京本社へ送った掲載紙への丁重なお礼だった。対照的な2人だが、だからこそバランスが取れていると思った。片方のプラスが片方のマイナスを補い、マイナスがプラスを際立たせる。
その2人が22日に解散した。岩橋は吉本興業を退社して、兼光はピン芸人として活動する。吉本興業の先輩だった、極楽とんぼは10年の月日をへて、また一緒に活動するようになった。その過程を目の前で見て、取材した。
いつの日か、プラス・マイナスも一緒に漫才ができると信じている。その日を楽しみにしたい。【小谷野俊哉】