渥美二郎と梶原あきら 2人を引き合わせたのは日刊スポーツだった!?

演歌歌手の渥美二郎(2024年7月撮影)

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

演歌歌手の渥美二郎(71)と梶原あきら(70)が7月末、「千住ブルース」をリリースした。この発売記念取材会に参加した。

渥美二郎と言えば、記者にとっては「夢追い酒」だ。演歌好きな母のお気に入りで、子どもころ家庭で良く耳にしていた。だが、記者はその後、ヘビーメタルへと傾倒していくのだが…(笑い)

渥美は流しの親方をしていた父の影響で、17~18歳の頃から、北千住周辺の夜の街で“流し”の活動をスタートしている。渥美はこれを“演歌師”という。

梶原は当時の様子を「夜のスナックなので、みんなお酒が入っているじゃないですか。そんな中で、渥美先輩がギターをボロンとやって一節歌うと、場の空気が変わるんです。グラスの氷の音が聞こえるくらい静かになって、皆が聞く態勢になるんです」。

時は昭和40年代半ば。ちょうど記者が生まれたあたりだが、当然今のようなカラオケはない。渥美がいう“演歌師”がスナックを回っては歌を披露。お客さんのリクエストに応えて歌ったり、ギター演奏でお客さんに歌わせたりしていた。

だが、そんな文化も、やがて終演を迎える。渥美はその要因は「カラオケと自動ドアにある」という。昭和50年代になると“8トラ”と呼ばれる伴奏だけのミュージックテープが登場。「スナックにいくと小さな機械があって、お客さんがそれで歌っているから、やりづらくなっていった」。

また、自動ドアの出現で「スナックに入るタイミングが分からなくなった」という。「自動ドアがない頃はお店の中をのぞけたので、お客さんがビールを2~3杯引っかけたタイミングで入れたけど、自動ドアでのぞくと開いちゃいますよね。それでお客さんから『早い、早い!まだおしぼりで手も拭いてないよ』と怒られた」。

渥美は“演歌師”という文化の終焉(しゅうえん)を、実際にその身で体験した貴重な1人だった。

なお、2人を結び付けたのが、日刊スポーツだったことも判明。グループサウンズに憧れて上京した梶原だったが、歌も、ギターも経験がなかった。上京して手にしたスポーツ新聞に「『歌手、ギター募集』とあってすぐに連絡した」。それが渥美芸能社だった。

渥美は「当時、日刊スポーツに広告を出していた。ギターと書くのがカギなんです」と笑った。だが、「これで人は来るけど、すぐにデビューできないと分かると、残るのは3分の1くらいでした」。そんな状況で残ったのが、梶原だったのだ。【川田和博】