三國連太郎さん十三回忌の会、参列者が佐藤家3代から受けとった“日本映画のバトン”

三國連太郎さんの13回忌の会に登壇した佐藤浩市(左)と長男の寛一郎

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

2014年(平26)に亡くなった、三國連太郎さんの13回忌の会が命日の4月14日、都内の角川大映スタジオで開かれ、参列した。三國さんと生前に縁のあった俳優、映画、芸能関係者400人が集まった約2時間の会は、場内に三國さんの出演作の映像が流れ、登壇者からは役と作品作りに全てをささげる、三國さんの生前のエピソードが次々と飛び出し、あふれる映画愛に包まれたように覚えた、ひとときだった。

会の冒頭で、三國さんの60年を超えた俳優人生をまとめた映像が流れた。33歳で出演した1957年(昭32)「異母兄弟」(家城巳代治監督)で、老人の役作りのために歯を10本も抜き、顔の輪郭を変えて周囲を驚かせたという広く知られたエピソードも改めて紹介されたが、同作品で三國さんが演じたシーンが流れた中で披露されると、より重みというか、ひと味違った感覚を覚えた。

13回忌の会は、三國さんとゆかりのある小林薫(73)渡辺えり(70)永瀬正敏(58)羽田美智子(56)浅田美代子(69)吉岡秀隆(54)「釣りバカ日誌」シリーズの朝原雄三監督(60)石橋蓮司(83)北大路欣也(82)が登壇。おのおのが人生の1ページの中で遭遇した三國さんとのエピソードを明かし、それを長男の佐藤浩市(64)と、孫で佐藤の長男の寛一郎(28)が壇上で聞くスタイルを取った。

浅田は「釣りバカ日誌」シリーズで共演した際、三國さんが主演の西田敏行さんと「ケンカという意味ではなく『そこは違うよね』『いやいや、ハマちゃん』などと言って撮れない日があった」と議論するあまり、撮影できなかった日があったと明かした。

脚本も手がけた朝原監督が「大体、三國さんが台本を壊す」と補足すると、浅田は「いきなり『ピエロの格好で出ようかと思うんだけどね』と言ったり。何で、ここでピエロ? とか、面白かった」と言い、笑った。

さらに、朝原監督は「言いたくないセリフとかあると『ここは、抜いていきますから』とか言う。そういう部分もあったんですけど、後半戦は、そんなことはなくなりました」と、三國さんが脚本を変えてしまう時もあったと振り返った。

助監督を務めた1991年(平3)の山田洋次監督(93)作品「息子」に三國さんが主演した際は「(山田監督は)独裁的な監督ではないですけれど、はっきり意見が合わない俳優が来たなと思った」と感じたという。衣装合わせの際、三國さんは「着たくない。おかしいんじゃないですか?」と、用意された衣装にダメ出しもしたという。

「息子」で三國さんと父子を演じた永瀬は、同作が唯一の共演だったが、朝原監督の話を聞き「そんな(事前にもめた)そぶり、全くなかったのでゾッとし、ビックリしています」と言い、笑った。三國さんからは、撮影現場で「すごく、よくしていただいた。とにかく、いっぱい話していただいた」という。

「(話は)映画についてではなく、戦後(戦地の中国から)日本に戻られ、行商されて『宮崎を歩いたんですよ。とにかく買ってくれて、ホントに良い人ですね』と。事前に、僕が宮崎出身だと調べて、しゃべるきっかけを作ってくださった」

当時、三國さんは70代後半の大御所、永瀬は20代半ばの若手だったが、分け隔てなく接してくれたと感謝した。アドバイスや指導は「一切、なかった」と言うが、三國さんが撮影の1週間前に撮影現場の岩手に入り、セットを手で触っていたと撮影前に周囲から聞き「ヤバい」と焦ったと振り返った。

三國さん、佐藤、寛一郎の3代と共演歴のある石橋も「時々、三國さんが朝(映画の撮影現場の)セットから出てきたりするんで。どうしているんだろう? と思ったら、セットに泊まっているんですよ」と明かした。「だから、そんな方に近くに行って『おはようございます』なんて言えないから、遠くから見ているしかなかった」と振り返った。

会の冒頭で流れた生前のインタビュー映像の中で、三國さんは次のように語っている。

「アクターという考え方はないですね、素人だから。今は、アクターになりたいと思っていますね。なれないかも知れませんけどね、なりたいとは思っていますね。アクターとして名が残っていけば、私の身辺の者が、ある程度、思い出して、記憶の中にとどめてもらえるのではないかと思いますけど。まだ、意欲が足らないのではないですか、アクターたらんとする」

こう話し、そして「(中略)きっとどこかで方向が曲がっていたんで、もういっぺん軌道修正して、改めてアクターへの道を探ろうという意識は、多分にありますね。生きたという実証をしたいということでしょうね。僕の場合は息子も役者していますから、息子もそれに気が付いてくれたら1番、いいがなぁ、と」。

収録当時、三國さんは85歳だった。日本国内の映画賞を総なめにし、86年には製作も務めた監督作「親鸞・白い道」が世界3大映画祭の1つ、カンヌ映画祭(フランス)で審査員特別賞を受賞。それでもアクター、俳優になりたいと、亡くなる5年前に口にしていた三國さん。朝原監督は、そんな三國さんの俳優、芝居への執念を「釣りバカ日誌」シリーズを製作する中で見たと振り返った。

「西田さんに勝ちたかった。毎回、お会いする度に『今年は朝原さん、今までのお芝居のやり方を全部、捨てて、新しいやり方でお芝居しますから』と言うんです。何を言っているんだと思ったら『西田君に負けたくない。天才についていきたい。あそこに追いつかないと、やる意味はないんだ』と言っていました」

佐藤は、会の中で「(亡くなって)もう、12年。三國連太郎がカメラの前で、ブイブイ言わせていたのは、もう四半世紀以上前になります」と、しみじみと口にした。

その上で「その時とは映画の作り方、芝居の作り方も稽古も大分、変わってきて、三國がビックリするところもあると思う」と、映画製作の現場も、時代の移ろいに逆らえない部分が多分にあると続けた。

そんな現代を俳優として生き、若手から中堅へと歩を進めようとしている寛一郎の心に、十三回忌の会は深くしみたようだ。石橋が「映画の撮影の際、三國さんと監督が議論になって夜が明け、意見が一致しなかったことで撮影がなくなったこともあり、俳優として自分の意見を言って良いんだということを勉強させていただきました」と語ると、うなずいた。

そして「本当に皆さんの話を聞くと、エゴイストでクレバーな方だなと思いました。三國さんは芝居、映画の中でしか正直で、いられなかったのかなと感じています」と率直な感想を語った。

会の案内状には、07年に三國さんと佐藤が全日空のCM撮影を行った際、撮影現場を見学に訪れた当時、小学生の寛一郎と一緒に撮影した、3世代のプライベート写真が掲載された。寛一郎は「写真を撮ったのは覚えています」と言い「僕は三國連太郎さんと(祖父としての)佐藤政雄さんという方は100%、乖離(かいり)した存在、別人のようだった」と祖父を評した。

3世代で写真を撮影した当時、俳優になるという思いがあったかと聞かれると「何も考えていなかった」と正直に答えた。

三國さんの作品は、俳優を志すようになってから見たという。23年4月に都内で行われた「せかいのおきく」(阪本順治監督)完成披露試写会で、共演した佐藤と公の場で初めて父子ツーショットを披露した際「この、いまいましい、ふざけた佐藤家のDNAをですね、100年後も残していって欲しいなということで、僕も頑張りたいと思う」と口にした。父から「コラっ!!」と突っ込まれるなど、一連のやりとりは芸能ニュースとして広く報じられた。

この日も「自分が軽々しく言えない存在ですが、尊敬する好きな俳優の1人です」と、三國さんを俳優として見つめ、リスペクトしていると口にした。そして、三國さんのインタビュー映像の言葉を引き合いに「僕は三國さんの思いを受けて、アクターにもスターにもならず、このまま、まい進していきたいと思います。最後に1つ言えることは、三國さんに恥ずかしくない作品を残していければと思います」と誓った。

会の終了後、参列者と意見を交換した。中には映画界の現状を憂う人もいたが、そうした人を含め、話した全員が「映画は、やはり良いものだと思えた」と口にした。

記者も同感で、佐藤家3代に、日本映画の素晴らしさを教わった思いだった。この会から受けとった“日本映画のバトン”を、1人でも多くの人に渡すことが、映画記者としてやるべきことだと思い、書き始めたこの原稿も、ずいぶん長くなってしまったが、それでも、まだまだ、伝えたいことがある。【村上幸将】