65年の歴史を終え閉館も9日後“廃虚”開く丸の内TOEIのエネルギーが生んだ国民的漫画の新聞

丸の内TOEI(2025年1月撮影)

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

1960年(昭35)9月20日に東京・銀座に開館した映画館「丸の内TOEI」が7月27日、本社ビル・東映会館の再開発と本社移転を受けて閉館した。24年5月15日開催の取締役会での決議を受けての発表後、記者をはじめ新聞社の映画担当記者、映画ライターの間からは、惜しむ声が相次いだ。とにかく、愛された映画館だった。

有楽町、日比谷周辺は、映画館が多く、古くから“映画の街”と言われてきた。東映会館と丸の内TOEIは、そのど真ん中とも言える銀座3丁目にある。周辺で映画の舞台あいさつが複数あると、他の映画館で行われる他社のイベントへ向かうにも動きやすく、有楽町、日比谷付近の映画取材の“拠点”と言っても過言ではなかった。

そうなり得たのは、東映が取材に足を運ぶメディアを大事にする、温かく、人情味がある映画会社である、ということに尽きるだろう。丸の内TOEIで舞台あいさつがある日は、早くに出向くと、受付時間よりずいぶん前であっても受け付けを設置してくれ、集まった取材陣を予定より早く劇場内に入れてくれることも少なくなかった。暑い夏も寒い冬も、救われた。

東映会館7階の映画宣伝部、試写室に行く度に「お茶、飲んでいって」「他(の社)の舞台あいさつの取材後でも、パソコンの電源、持たなそうだったら、来て書いて良いから」などと、温かい声をかけてくださるのに甘えて、ずうずうしく毎日のようにお邪魔した。監督や俳優も試写室に足を運ぶので、会えば談笑したり…映画の1つの社交場になっていた。そうした会話の中から、さまざまな面白いアイデアが湧き出て、それが新作映画の情報解禁や舞台あいさつなどのネタになったり、大きな企画につながったり、スクープに発展したこともあった。

だから朝から東映会館7階に出向いては映画宣伝部のメンバーと語り合い、そこから取材現場に向かい、取材が終わると、とんぼ返りして原稿を書きながら、夜遅くまで映画の話をした。建物が古いため、冷暖房いずれも午後8時になると切れ、夏は暑く冬は寒い。それでも夜遅くまでずうずうしく居座ったのは、人の数が少なくなった時間帯に、より深い話ができたからだ。

その中で生まれたのが、尾田栄一郎氏原作の漫画「ONE PIECE」をアニメ映画化した12年「ONE PIECE FILM Z」公開時に発行した「ONE PIECE新聞」である。11年の秋から冬に季節が変わる頃、有楽町周辺で他社の映画の舞台あいさつを取材し、原稿を書き終えた足で、午後9時半ころに東映会館7階の映画宣伝部に足を運ぶと、その日は仲の良い宣伝担当者が1人だけ残っていた。

「茶でも飲んでいきませんか?」と言うので、向かい合って話を始めた。すると、ボソッと「今度『ONE PIECE』の新作の宣伝を担当することになりました」と口にした。「それは、大きな作品だね。何か、面白いことをしたいね」と返した次の瞬間、どちらからともなく、同時に口にしたのが「ONE PIECE新聞を作ること、できるかな?」だった。

国民的な漫画であり、日本を代表する世界的なコンテンツだけに、そもそも企画を出しても、原作漫画を連載している「週刊少年ジャンプ」の出版元・集英社がOKを出す保証はない。それでも「1回だけじゃなく、何回か作ろう」「もし、実現できたなら、宣伝は『ONE PIECE新聞』にかける」などと2人で盛り上がった。その日から連日、東映会館に通っては、何度も企画案を練り直し、集英社に提案。GOサインが出て取材を始めると、声優陣のみならず、多忙を極める尾田氏へのインタビューも実現した。

そして「ONE PIECE」一色の新聞「週刊ONE PIECE新聞」の発行にこぎ着けた。1号あたり20ページのタブロイド版の新聞を4週連続で発行し、その企画から取材、執筆の多くは自分でやった。途中からは多忙すぎて、当時のことを細かく覚えていないくらいだが、発行から13年たった今、改めて読んでみると、尾田氏、声優陣のインタビューから、担当編集者に聞いた同氏のエピソードまでコンテンツがギュウギュウに詰め込まれ、手前みそながら熱量がある、面白い新聞になったと思う。

当時、発売されていた70巻のコミックスカバーも全て掲載したが、現在、コミックスは112巻まで到達した。時の流れを感じるが、その間、16年に「ONE PIECE FILM GOLD」公開を記念した「大ONE PIECE新聞」2号、19年には「ONE PIECE STAMPEDE」公開を記念した「ONE PIECE新聞万博」を発行した。「ONE PIECE」をテーマにした新聞を、ここまで展開したケースは、ないだろう。

丸の内TOEIが閉館した7月27日には、グランドフィナーレとして1980年(昭55)「動乱 第1部 海峡を渡る愛 第2部 雪降り止まず」(森谷司郎監督)を上映した劇場前で、最後の“勇姿”を取材した。見終えた観客に加えて、最後のお別れをしようと、駆けつけた約300人がおり、劇場前の歩道は通行が困難なほどごった返していた。「東映、ありがとう!!」などと感謝の声が飛び交う一方で、混雑の中、小競り合いする男性も…。取材が難しくなったため、同業他紙の大先輩の記者と人垣の後ろに回り、その間から丸の内TOEIの扉が閉じる瞬間を見守った。午後8時8分に劇場内に灯っていた明かりが消え、大川橋蔵さん主演の60年「海賊八幡船」(沢島忠監督)の上映から始まった、約65年の歴史にピリオドを打った。

そうした、日本映画史の1ページに残る瞬間を取材しておきながら、わずか9日後…記者は丸の内TOEIの中にいた。東映が配給する、西島秀俊(54)主演の日本・台湾・米国合作映画「Dear Stranger/ディア・ストレンジャー」(真利子哲也監督、9月12日公開)完成報告会見が開かれたからだ。

関係者によると、西島が演じた賢治が廃虚に取りつかれ、米ニューヨークの大学で建築の研究をしている日本人助教授という役どころで、作品のテーマにもなっている廃虚で会見を開こうと探していたという。その中で、閉館した丸の内TOEIが「これから廃虚になっていく劇場」という点が作品のテーマにもマッチするとの結論に達し、閉館後のイベント開催に向けて動いたという。この日は観客は入れておらず、関係者は「本当に、最初で最後のイベントになると思います」と口にした。

とはいえ、さまざまな思い出が脳裏をよぎり、複雑な心境で丸の内TOEI閉館を取材した立場としては、何とも言えない思いだったのは事実だ。テレビ番組のドッキリ企画で、だまされた芸人は、こんな気分になるのか…とも思い、東映の担当者に「丸の内TOEI閉館前に、紙面で閉館企画を3回、連載して大展開したのに…まるで“だまされ芸人”じゃないかよ!」と声を大にして言ったら、大笑いされた。それも、丸の内TOEI…もっと言えば東映らしさ、味なのだと思った。

さすがに、もう、丸の内TOEIに入る機会もないだろう…寂しくもある。改めて振り返ると、丸の内TOEIと東映会館には、社員と足を運ぶ記者が手に手を取り合って“東映一家”となり、一緒に面白いものを生み出すエネルギーが漂っていたように思う。きっと、それは65年の歴史の中で、歴代の東映社員と東映会館に通った記者が日々、積み重ね続け、それらが醸成されたものに違いない。

東映には、ほど近くの複合ビル「京橋エドグラン」に本社を移転した後も、取材に足を運ぶメディアと、手に手を取り合って、一緒に歩いて行く“東映イズム”を忘れて欲しくないと、切に願うばかりだ。【村上幸将】