“岸壁の母”二葉百合子94歳の素顔 藤あや子、坂本冬美、原田悠里「二葉組」と解き明かす

「二葉組」の弟子たちと写真に納まる二葉百合子(手前)。後方左から藤あや子、坂本冬美、原田悠里(撮影・千葉一成)

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歌謡浪曲「岸壁の母」で知られる二葉百合子(94)。2011年(平23)3月に「今後は後進の育成にあたる」と77年の芸能生活にピリオドを打ったが、以降も後輩歌手の公演などにゲスト出演をして貫禄のある歌声を響かせている。94歳で唯一無二の存在感。一体どんな人なのか。弟子の「二葉組」主要メンバーとともに“素顔”を解き明かす。【取材・構成=松本久】

■3歳で浪曲師デビュー

「引退をしたのは(数え年で)80歳の時。声はまだまだ出ていたんです。でも『声が前より出なくなってかわいそう』『落ちたな』とお客さまに言われるのが怖くて決断をしました」。当時のことを話す声にはハリがあり、滑舌良く、かつ明瞭。卒寿を超えているとは思えない若々しさのルーツをひもとくと3歳で浪曲師としてデビューしたことに行き着く。

父は浪曲師の東若武蔵(あずま・わかむさし)。その指導は厳しく、ゲンコツが飛んでくることもあった。10歳のころから「二葉百合子一座」の座長として全国を回る。「小さい時から仕込まれていますから発声が違うのでしょうね。のどの先から『ふわ~』っと声を出したって、聞く人に響くわけがない。一生懸命に歌おう、語ろう、浪曲の節をやろうという気持ちで、おなかからしっかりと声を出さないと受け止めてもらえません」。

一座の公演は戦時中も続いた。空襲警報が鳴ると中断する。「ここに爆弾が落ちませんように」。そう願いながらひたすら待ち、警報が解除されたら再開。東京大空襲後の焼け野原は今もしっかりと目に焼き付いている。45年8月の終戦は14歳で迎えた。

■80歳引退公演で初めて

浪曲から歌謡界に転身し、57年に「女国定」で歌手デビュー。72年発売の「岸壁の母」は、実在する端野いせさんが1人息子を引き揚げ船の船着き場で待ち続ける姿を描いた。間奏に浪曲のせりふを入れる新ジャンル「歌謡浪曲」を確立させ、菊池章子の曲をカバーして大ヒットした。端野さんは81年に亡くなるまで二葉の公演に通い続けた。「亡くなった後も歌っている時にはおばあちゃん(端野さん)がそばにいてじっと聞いている。その姿が私には見えました。それが(11年の)引退公演の時に初めて姿がなかった。もう安心して(あの世に)いけますよっていうことだったのでしょうねえ」。

「岸壁の母」は平和への祈りを込めた反戦歌だ。「戦争は2度と繰り返してはいけません」。端野さんと同じく1人息子を持つ二葉だからこそ一層、強い思いがこもる。引退会見でも「この曲は永遠に生き続けてほしい。平和な時代だからこそ、この歌を聞いて若い人の10人に1人でも戦争の恐ろしさや悲しさを感じてもらいたい」と訴えた。

■歌謡界から門下生参集

浪曲師時代から多くの門下生が集まった。歌謡界では湯原昌幸(78)石川さゆり(67)、そして原田悠里(70)坂本冬美(58)藤あや子(64)ら「二葉組」メンバーが歌謡浪曲を学んでいる。「(三味線でやる)関東節も(音楽を加える)歌謡節も、ちょっと教えるだけでとにかく覚えが早い。自分の個性を加えて良い味を出してやってくれる。そして何よりも意気込みが違います」。

原田らは稽古の時に二葉の歌唱を録音。自宅で繰り返し聞いて覚え、次回に披露をする。すると微妙に異なっていることがあるという。二葉は「のどの調子が良いとこぶしを自然ともう1回まわしちゃうんです。『先日教えてくれたのと違います』なんて言われますけど、それはそれで良いんです。それぞれの個性でやってくれれば満足。そこが浪曲の良いところ」。基本を押さえながら伸び伸びやりなさい、という教えだ。

■「尊大な態度をとるな」

二葉が自分自身を厳しく戒めていることがある。それは「どうだ。うまいだろう」というような尊大な態度で歌ってはいけないということ。「父の教えです。『いい声だな』とお客さまが自然と拍手をしてくださるよう、控えめで一生懸命でないといけません」。そしてもう1つ。「1曲でも何十曲でも準備は一緒」。真摯(しんし)に曲と向き合い、どんな時でも決して手を抜かない。弟子たちも教えを心に刻んでいる。

■元気の源は「食と運動」

元気の源は「よく食べること」だという。「昔の貧しい家庭に育ったのでお肉はあまり好きじゃないんです。ジャガ芋の煮っ転がし、ぬか漬けなどの野菜料理や中華料理がいいです」。運動はウオーキングが中心。「歩ける時に5000歩か6000歩くらい」。最近まで、東京駅で各地の駅弁を買うのを楽しみにしていた。「自宅に持ち帰って食べるんです。その土地に行った時の舞台の様子や旅館の景色などが頭に浮かぶ。だから日本中のお弁当を食べたい」。

■長年のファンへの感謝

立ち姿は背筋がピンとまっすぐ伸びて美しい。それは生きる姿勢にも通じている。ファンへのメッセージを求めると「何十年と長い間、二葉百合子を応援してくださった。もう、皆さまに手を合わせます。本当にありがとうございます。それだけです」。感謝の思いがあふれ、目は真っ赤だった。

二葉の「岸壁の母」は聞く人の心を打つ。それは曲の持つ力に加え、二葉の生きざまや思いが歌に反映しているから。「二葉組」がそれを継承している。

◆二葉百合子(ふたば・ゆりこ)1931年(昭6)6月23日、東京生まれ。浪曲師の父に師事して3歳で初舞台。57年に「女国定」で歌手デビュー。間奏に浪曲のせりふを入れる「歌謡浪曲」を確立した。72年に「岸壁の母」をせりふ入りでカバーして大ヒットさせ、76年にNHK紅白歌合戦に初出場。70年に文化庁芸術祭賞優秀賞。94年に芸術選奨文部大臣賞、06年に旭日小綬章。

■藤あや子 新しい歌世界への導き手

藤は親友の坂本が二葉と食事をする際に同席をするなど親交はあった。だが、04年に母が63歳で亡くなって心の支えを喪失。「私のお母さんになってください」と頼んだ。

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もともとはファミリー的なお付き合いでした。でも母が亡くなり、心にぽっかりと穴があいてしまって電話をしたんです。二葉先生の存在は母とダブるものがありましたから。その時に「私でよかったら。お稽古にもいらっしゃい」と言ってくださった。そこから師弟関係が始まりました。

歌謡浪曲を教わったり、先生の曲と私の作品を合体したものを作ったり。今までやったことのない歌の世界に導いてくださった。私はもともと民謡歌手ですが、浪曲は節回しなど違う部分があるんです。それを発見するのも楽しい。多くのことを学んで、大きな財産になっています。

■坂本冬美 歌手復帰への大切な恩人

坂本はデビュー15周年となる02年3月、歌うことに自信を失い「引退をしてもいい」と覚悟を決めて休養をした。だが二葉が歌う「岸壁の母」をテレビで見て「この強いのどと精神力があったらもう1度歌えるかもしれない」と思い、門をたたいた。稽古を重ねて翌年4月に復帰した。

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先生は「歌手坂本冬美」を生まれ変わらせてくれた大切な恩人です。「歌手を辞める」と言ったはずが、復帰のきっかけをくださった。先生と出会っていなかったら今はありません。当初、私は全く声が出なかったんです。低いほうも出ないし声自体が細かった。それを強くしていただいたのも、音域が広がったのも先生のおかげ。歌謡浪曲を教えていただいたからです。それまでは薄っぺらい歌しか歌えなかった。歌の幅も広げていただきました。

■原田悠里 “硬い歌”を軟らかく

原田は子どものころから演歌が好きでこぶしをよく回していた。だが、82年のデビュー後に「あまり回らない」と悩みを抱えるように。そんな時、師匠の北島三郎(89)から「二葉さんに指導をしてもらったらどうか」と提案をされた。

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先生はキングレコードの大先輩。門をたたいたら「いらっしゃい、いらっしゃい」と快く受け入れてくれました。そして(85年発売の「木曽路の女」の別バージョンとして)2000年に「木曽路の女 歌謡浪曲入り」を発売したんです。その後、先生の元に通い出した(坂本)冬美さんから「一緒に勉強をしましょうよ」と声をかけてもらいました。

それから(石原)詢子ちゃんも仲間に入ってくれて島津亜矢ちゃんも加わった。「二葉組」と言い始めたのは20年ごろ。最初はもっと上品な「二葉会」という呼び名でしたが、「二葉組」の方がいいよねとなりました。

先生は私の“硬い歌”を軟らかくしてくれて曲の幅を広げてくれた。(歌謡浪曲の)「特攻の母」という宝物の歌もいただきました。感謝しかありません。

◆二葉百合子の主な弟子 浪曲界では「玉川カルテット」二葉しげるが有名。歌謡界では湯原昌幸、石川さゆり、そして「二葉組」の原田悠里、坂本冬美、藤あや子、石原詢子、島津亜矢がいる。