たった2作で映画史に名を残した長谷川和彦監督 出所の日に感じた人間力

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

映画監督の長谷川和彦さんが80歳で亡くなった。

学生時代に見た「青春の殺人者」(76年)と「太陽を盗んだ男」(79年)に衝撃を受け、80年に映画記者になった時には、仰ぎ見るような存在だった。

初めて取材したのは、予想外の現場だった。81年暮れに飲酒運転で事故を起こした監督は83年春から5カ月半、千葉・市原の交通刑務所に収監された。出所の日、刑務所近くが直撃取材の場となった。

「無頼派」と言われ、長髪のイメージが強かった監督は、スーツに短髪と、らしくない姿で現れた。

「東京拘置所の独房が一番辛かった。市原ではアルミ工場でプレス工として働きましたが、この前ケガをしてしまいましてね」と紫色に腫れ上がった左手の人さし指を見せた。

近くのスーパーに立ち寄ると、500ミリの缶ビールを買ってグビリと音を立てて飲んだ。取材の目を気にしないところに無頼派の片りんを感じたが「最高にうまい。でも、飲酒運転は2度としないから安心してください」と殊勝に語った。憎めないというか、出所後の三枚目的な姿も妙に魅力的で、人を引きつけてやまないところがあった。要は人たらしなのだ。これが、監督としての「人間力」なのだと思った。

ゴジラのようにタフという意味で「ゴジ」の愛称で呼ばれただけに、映画製作への意欲は衰えていなかった。

「段ボール3箱分は本を読みましたからね。いろいろと構想を練りました。ラグビー青春ものが第一、連合赤軍をテーマにしたものも考えています」

この時口にした「連合赤軍」が、良くも悪しくもライフワークとなり、製作間際まで行ったかと思えば行き詰まり-を繰り返すことになる。82年に設立したディレクターズ・カンパニーには相米慎二、根岸吉太郎といった気鋭が集い、その代表としてプロデューサー、脚本担当としての取材機会はまれにあったが、結局、監督作品は学生時代に見た2本がすべてになってしまった。

一昨年、47年前の遺作となった「太陽を盗んだ男」のプロデューサーで、交通刑務所からの出所にも立ち会った山本又一郎さんに話を聞く機会があった。実はこの作品も3億7000万円の製作費の半分近くが未調達のまま、見切り発車で撮影を始めていた。

「ゴジの熱意がね」。一緒に仕事をした人は、いまだに「ゴジ」と呼ぶ。「それが分かるから、無理な設定でもその部分を切るわけにいかない。例えば皇居前の撮影には4省庁の許可が必要だったけど、どこもOKを出さない。そうしたら当時の皇宮警察のトップがささやくように『いつですか?』と。その日に連絡したら、車止めの一部がさりげなく取り払われていた。今では考えられないやり方ですけどね…。お金に関しては、確実にヒットが見込める映画を並行して作ることで乗り切りました。それがいしいひさいちさんのコミック『がんばれ!!タブチくん!!』のアニメ化でした」と裏側を明かした。山本さんを突き動かしたのもゴジの人間力なのだろう。あの傑作ギャグアニメがゴジ映画の副産物だったとは。助監督として鍛えられた師、今村昌平監督譲りの「粘り」もあったのだと思う。

「連合赤軍」については、死の間際まで構想を練り続けていたと聞く。構想が膨らみ、6時間を越す「大作」になっていたとも。長谷川監督の作品は内容にインパクトがあるだけでなく、タイトルもキマっていた。どんなタイトルになったのだろうか。想像ばかりが膨らんでしまう。【相原斎】