吉永小百合(80)が、日刊スポーツ80周年を記念し、取材に応じた。1959年(昭34)に「朝を呼ぶ口笛」(生駒千里監督)で映画デビューし、翌60年に日活に入社。以後、25年の124本目の映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」(阪本順治監督)まで、日刊スポーツの歴代の映画担当、番記者の取材を昭和、平成、令和と3つの時代にわたって受け続けてきた。日刊スポーツに残っていた思い出の記事をひもとき、忘れられない記者など、デビューからともに歩んできた歴史を振り返った。【村上幸将】
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★「勝ち気なんです」
日刊スポーツとの歩みを振り返る取材の冒頭で、吉永は満面の笑みを浮かべて口にした。
「今朝も新聞に目を通して、記者が現場でしっかり取材し、活躍した跡が見える、映画の記事を読んで、うれしくなりました」
日刊スポーツに残る、吉永に関する最も古い記事は、日活に入社した翌年の61年4月12日付紙面に掲載された企画「新しい芽」第12回で、日活期待の新人として紹介されたものだ。当時16歳。「荒海のごとき映画界では無理じゃないか」という記者の問いかけに「あたしって、勝ち気なんです」と言い切っている。
それから1年もたたない翌62年2月18日付紙面の掲載記事で、吉永の立場は「日活スター」へ。一気にトップへの階段を駆け上がったことが分かる。高校入学と同時に日活に入社したのは、学費を捻出するためだったが、61年の1年間で16本も映画に出演。4~5時間睡眠で頑張り続け、虫垂炎と十二指腸潰瘍を患った。「本当に幸運に恵まれました」と振り返るが、過酷な日々だった。
68年6月28日付紙面では、高校の美術教師を演じた「だれの椅子?」(森永健次郎監督)の撮影を翌7月に控える中、早大第二文学部4年でギリシャ悲劇をテーマに卒業論文を書くため、日比谷の書店で資料を探す姿に密着した記事が掲載。映画担当記者が日々、追いかけ、書いた過去の記事の束を見つめ「励みになります。何を書かれても寄り添ってきて、映画について取り上げていただくことは演じる者にとって、とてもすてきなこと。また次も頑張ろうという思いにもなりますから」と瞳を輝かせた。
★忘れられない記者
忘れられない映画記者がいる。厳しい目を向けつつも映画を愛し続け、06年1月に76歳で亡くなった谷口源美(たにぐち・もとみ)さんだ。吉永が高倉健さんと初共演した80年の映画「動乱」(森谷司郎監督)のクランクインについて、79年3月6日付紙面の記事には、谷口さんの署名がある。1年かけて1本の映画を作ることに感動した吉永が、自ら「最大の転機」と位置付ける作品で、高倉さんと向き合う写真も掲載された。吉永は署名を見つけ「あぁ(愛称の)げんみさん! うれしいですね。結構、辛辣(しんらつ)なこともおっしゃる。でも(映画を)見て『あなた、しっかり頑張りなさいよ』とエールを送ってくださった」と感謝した。
谷口さんが創設に尽力し、昨年で38回を数えた日刊スポーツ映画大賞で、吉永は88年の第1回、00年の第13回、12年の第25回と、最多3度の主演女優賞を受賞。「出演する者にとって賞があるのはうれしいことです」と継続を強く望んだ。そして、日刊スポーツと新聞業界にエールを送った。
「スポーツ紙がいろいろある中で、日刊スポーツは本質的なところから書いてくださるインテリジェンスのある新聞と感じています。会見で、いつも最初に質問をしてくださるのは特別なことです。私は紙媒体が、とても好きなんですよ。ネット、ネットと違う場所にいかないで、ぜひ紙で読みたい。朝、起きたら新聞受けから新聞を取って読むのは自分の日常の大事な1つ。一般紙も土曜の夕刊がなくなっているのは悲しいし…。本当に大変だと思うけれど続けていただき、新聞から情報をいただき前進したい。映画の話を書いていただけることは、映画人として最高のプレゼントだと思っています」
◆吉永小百合 よしなが・さゆり。1945年(昭20)3月13日、東京都生まれ。57年のラジオドラマ「赤胴鈴之助」でデビュー。62年「キューポラのある街」でブルーリボン賞主演女優賞、同年に橋幸夫さんと歌った「いつでも夢を」で日本レコード大賞受賞。