映画「開戦前夜」係争中の裁判前日に原告側に反論「創作で故人の名誉毀損はない」/全文

映画「開戦前夜」ホームページから

25年8月16、17日にNHK総合で放送されたNHKスペシャル「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」のドラマパートに40分の追加シーンを加えた、池松壮亮(35)の主演映画「開戦前夜」(石井裕也監督、31日)の製作委員会は22日、声明を発表した。

作品を巡っては、劇中に登場する、実在した総力戦研究所の初代所長の、旧日本軍の飯村穣中将の孫で、元駐フランス大使の飯村豊さん(79)が、祖父の名誉を毀損(きそん)されたと主張し、25年12月にNHKなどに550万円の賠償を求めて東京地裁に提訴。22日に第3回口頭弁論が予定されているが、19日には都内で開催予定だったプレミア上映会が、原告側が14日の一般試写会の際に、会場入り口付近の公道で拡声器などを用いて街宣活動を行ったことを受け、中止に追い込まれていた。

製作委員会は「本作に飯村穣氏は登場しません。原告は、作中の『板倉大道少将』が飯村穣氏であると断定しておりますが、板倉大道は創作された人物であり、飯村穣氏とは、名前も外見も階級も異なります」と主張。「本作の公開により、故人である飯村穣氏の名誉が毀損されたり、原告の敬愛追慕の情が侵害されたりすることはないと考えております」と、第3回口頭弁論前日に、原告側に真っ向から反論した。

その上で「原告の主張は、本作に登場する人物像を一面的に捉えたものです。作中の『板倉大道少将』は単純化された人物ではなく、組織の論理に従わざるを得ない現実を理解し、その中で行動する人物として描かれています」と主張。「独自の見解に基づく一方的な主張によって作品の公開が制限されることになれば、この国における歴史、特に近現代史を題材とした表現行為は、題材を含めて著しく制限されてしまいます」と訴えた。

さらに「『板倉大道少将』は、もとより飯村穣氏とは異なる創作上の人物として描かれておりましたが、原告から示された懸念も踏まえて、作中の登場人物と飯村穣氏との混同を避けるための措置(「所長」という肩書および呼称を映画版では使用せず、さらに本編冒頭にフィクションであることを明示するテロップを付けるなど)を講じています。これらの措置は、テレビドラマ版および映画版のいずれにも法的な問題がないとしても、原告の主張に可能な限り配慮し行ったものでした。しかしながら、原告の納得は得られず、協議は成立しませんでした」と、フィクションであることが、はっきり分かる、適切な対応をしたことを重ねて強調した。

その上で「当然のことながら、製作委員会は法令に反する意図はなく、司法の場における判断には従います。しかしながら、原告の一方的な主張のみを理由として、作品を観客の皆様に届けることを断念する考えはありません」と、7月31日に予定通り劇場公開を行うことを、改めて宣言した。

「開戦前夜」は、猪瀬直樹参院議員(79)が83年に出版したノンフィクション「昭和16年夏の敗戦」が原案。日本最高の頭脳を持つ若者が秘密裏に集められ、模擬内閣を結成して日米開戦の行く末をシミュレーションした、実在した「総力戦研究所」に着想を得て、石井裕也監督(42)が脚本・編集・演出を担当し、初めて戦争ドラマに挑戦。“圧倒的な敗北”の結論を手にした若者たちが、開戦へ突き進む軍や本物の内閣と対峙(たいじ)する物語。飯村氏ら原告側は25年に、放送倫理・番組向上機構(BPO)に審議入りなどを求める要望書を提出も、BPOは25年10月18日に「視聴者において誤解が生番組内でテロップでフィクションであることを明示するなどしており、視聴者に誤解が生じることはない」と討議入りしないとした議事概要を公表している。

以下、映画『開戦前夜』製作委員会の声明の全文。

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テレビドラマ版(NHKスペシャル「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」のドラマパート)に関する訴訟の原告は、本作を「故人(原告の祖父である飯村穣氏)の名誉毀損」「歴史捏造」「史実歪曲」等の強い表現で批判しています。また、原告は本作の公開阻止を繰り返し公言し、試写会においても、会場前の公道にて拡声器を用いた演説等を行っております。

しかしながら、これまで重ねて説明させていただいているとおり、本作に飯村穣氏は登場しません。原告は、作中の「板倉大道少将」が飯村穣氏であると断定しておりますが、板倉大道は創作された人物であり、飯村穣氏とは、名前も外見も階級も異なります。本作の公開により、故人である飯村穣氏の名誉が毀損されたり、原告の敬愛追慕の情が侵害されたりすることはないと考えております。

また、限られた史料や記録を基に当時の人々の声や人生に思いを巡らせ物語を創作することは、歴史を題材としたフィクション作品の通常のアプローチであり、そこにこそフィクションとしての価値があると考えます。史料や記録に基づくフィクション作品を通じて歴史を解釈し、批評的に描くことは、「歴史捏造」や「史実の歪曲」を意味しません。

総力戦研究所では自由闊達な議論が許され、その中で日米戦がどのように推移し、どのように敗北していくかを具体的かつ論理的にシミュレーションしました。その研究結果は1941年8月、当時の首相や閣僚の前で発表されました。一方、飯村穣氏名義の「講評」も出され、講評が記載された記録も残されています。この「講評」は、研究生たちの『日本は敗れる』という結論をそのまま受け止めるものではありませんでした。そこには、なお総力戦をどう遂行するか、開戦をどう判断するかという、当時の国策や軍の論理が色濃くありました。また、その「講評」に研究生たちが憤慨したという証言もあります。この「講評」から見えてくるのは、総力戦研究所を、全員が一つの意思のもとで開戦阻止に動いた組織として単純に捉えることはできない、ということです。当初は自由闊達な議論が許されたにもかかわらず、なぜこのような結果になったのか。本作は、この点に着想を得て物語を創作しています。ただし、「講評」という史料に着目したことは、飯村穣氏をモデルとしたことや、作中人物として再現したことを意味するものではありません。このように史料を基に物語を紡ぐこともまた、歴史を題材としたフィクション作品では一般的に行われる手法です。

日米開戦前の当時、日本とアメリカに圧倒的な国力の差があることは政府や軍部においても多くの人が認識していました。敗戦の危機を認識する人も多数存在していましたが、結果的に日本は開戦しています。国家の方針に逆らい、時代の空気に逆らい、自らの地位や立場を危険に晒してまで異議を唱えることは、当時も今も容易ではありません。戦争の無謀さを理解していたとしても、身を挺して開戦を止めるようなことはできなかった。本作で描きたかったのは、そのような時代、その社会の「空気」です。

さらに、原告の主張は、本作に登場する人物像を一面的に捉えたものです。作中の「板倉大道少将」は単純化された人物ではなく、組織の論理に従わざるを得ない現実を理解し、その中で行動する人物として描かれています。

独自の見解に基づく一方的な主張によって作品の公開が制限されることになれば、この国における歴史、特に近現代史を題材とした表現行為は、題材を含めて著しく制限されてしまいます。

「板倉大道少将」は、もとより飯村穣氏とは異なる創作上の人物として描かれておりましたが、原告から示された懸念も踏まえて、作中の登場人物と飯村穣氏との混同を避けるための措置(「所長」という肩書および呼称を映画版では使用せず、さらに本編冒頭にフィクションであることを明示するテロップを付けるなど)を講じています。これらの措置は、テレビドラマ版および映画版のいずれにも法的な問題がないとしても、原告の主張に可能な限り配慮し行ったものでした。しかしながら、原告の納得は得られず、協議は成立しませんでした。

当然のことながら、製作委員会は法令に反する意図はなく、司法の場における判断には従います。しかしながら、原告の一方的な主張のみを理由として、作品を観客の皆様に届けることを断念する考えはありません。

敗戦を予測する合理的な知がありながら、なぜ開戦を止められなかったのか。当時の日本を覆っていた、戦争に向かう「空気」の正体は何なのか。そして現代を生きる私たちは、その「空気」に呑み込まれないと言い切れるのか。国家だけでなく、あらゆる組織・集団に当てはまる問いを含んだ本作を、今、この時期に公開することに重大な意義を感じるとともに、多くの方にご覧いただけることを心より願っております。

映画『開戦前夜』製作委員会