<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>
御年89歳の伊東四朗さんに会った。8月2日付の日刊スポーツ本紙「日曜日のヒーロー」のインタビューのためだ。8月31日と9月9日の「伊東四朗一座リターンズ!? in浅草公会堂」について話を聞いてきた。
東京の軽演劇のこと、てんぷくトリオの黎明(れいめい)期のことなど、いろいろな事を聞けた。そして個人的には、なんと言っても“ベンジャミン伊東に会えた”ということに尽きる。
1976年(昭51)10月から78年3月まで、NET、テレビ朝日系で月曜午後8時に放送されていたバラエティー「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」の「電線マンの」コーナーが大好きだった。
伊東さん扮(ふん)するギンギラの衣装にむちを持ったベンジャミン伊東が電線軍団を率いて突如乱入。20年に78歳で亡くなった小松政夫さんに紹介されると、ベンジャミン伊東が「人の迷惑かえりみず、やって来ました電線軍団!」と口上を述べて、セットの上で1人ずつが電線マンとともに<歌詞>チュチュンがチュン チュチュンがチュン 電線に~ と「電線マン音頭」が踊らされる。そしていずこへと去って行く。
電線マンの着ぐるみの中には当時ADだった、後のオフィス北野社長で、北野映画のプロデューサーとしても活躍した森昌行さん(73)が入っていた。後に芸能記者になって、たけしさんの取材現場に行って原稿を書く度に「元電線マンの森社長」とわざわざ書いても、嫌な顔ひとつせず丁寧に応対してくれたのが懐かしい。
「みごろ!たべごろ!--」には小松さんの<歌詞>し~らけ鳥~ 飛~んで行~く という「しらけ鳥音頭」もあった。伊東さんがお母ちゃんに扮(ふん)して、小松さんと当時人気絶頂でありながら解散を表明したキャンディーズが子供たちだった。
伊東さんは「全国のPTAから迫害されました。あの番組だけは困ったもんだって、言われました」と振り返ってくれた。森社長については「そんな話を聞きましたね。でも、会ったこともない。着ぐるみの中に入ってたんで、話をしたこともない」。後にバラエティーでいじくられまくる、大プロデューサーも当時は下っ端だった。
小松さんとのコンビは絶妙だった。「どういうきっかけであったのかわからないんですけど、コンビ組んでるんじゃないかとまで言われて、一緒にしましたね。こちらから仕組んだことは1回もないんですよ。えー、みんな作ってくれて、いい曲が。なんか巡り合わせというか、そういうのがなんかできあがってたんじゃないかっていうか、不思議な関係でしたね」と話してくれた。
78年5月から79年2月まで放送されたTBSドラマ「ムー一族」を「あの番組も大きかった」。伊東さんは老舗の足袋屋「うさぎ屋」の主人を演じた。伴淳三郎、由利徹、左とん平、細川俊之、渡辺美佐子といった芸達者が出演。郷ひろみ、岸本加世子は、まだアイドルだった。怪優たこ八郎もいた。郷とテレビが元気な時代だった郷と樹木が歌った「ムー一族」がヒットチャートをにぎわした。テレビが元気な時代だった。
「何でも今の方が厳しいですよ。人の裸を出すような、当時はそういう番組がありましたか。その都度その都度、世間を騒がしたプロデューサーに呼ばれましたね。朝日放送の澤田隆治とかTBSの久世光彦さんとかね」
トップアイドルだったキャンディーズのバラエティーでの勘の良さには驚かされたという。「当時からワタナベプロの歌い手さんは、コントが上手。ザ・ピーナッツの時代からやってましたから(日本テレビ)『シャボン玉ホリデー』の中での(ザ・)ピーナッツさんの時に、あの笑いができたんですよ。私は何にも後押ししてないんですけど、キャンディーズを呼んでくれたってことはありがたかったです。本当にやりやすかったです」と振り返った。
「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」が始まったのは記者が中学3年の秋。まだ、月曜午後8時にはおとなしく家に帰って一家だんらんでテレビを見ていたのだろう。そういう時代だ。
まだネットも、コンプライアンス(法令順守)という言葉もなかったテレビが一番元気な時代。その話を聞けたのは記者冥利(みょうり)に尽きる。この商売をやっていて、つくづくよかったと思う。【小谷野俊哉】