シンガー・ソングライター山下達郎(73)が14日、37年ぶりのライブ・アルバム「JOY2」をリリースした。
ライブ活動を6年ぶりに再開した2008年(平20)から25年までの18年間で実施した、13本の全国ツアーの600を超える公演から、自ら厳選したベスト・オブ・ベストテイクをまとめた。山下が日刊スポーツのインタビューに応じ「JOY2」発売までの経緯、製作の裏側を語った。前編は、08年にライブ活動を再開した理由と、73歳の今もライブを軸に活動できているゆえんを語った。【村上幸将】
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山下は、02年から08年までライブ活動を行わなかった。79年のソロデビューから40年強、ギター2、キーボード2、ベース、ドラム、コーラス3に、山下を含めた10人編成を維持しており、バンドメンバー、スタッフともに同じメンバーで続ける志向は強い。ただ、00年代に入ってから、他のアーティストのツアーに呼ばれるメンバーが増え、スケジュールの確保が難しくなった。
その中で、05年の映画「東京タワー Tokyo Tower」(源孝志監督)の主題歌「Forever Mine」発売時に、スタッフから今後、世代交代でタイアップ楽曲のオファーが来ないと言われたことが、ライブ再開を考える大きなきっかけとなった。
「スタッフに『もう、これでタイアップは来ないと思ってください。新しい世代が台頭する時代ですから』と言われました。52歳の時です。(年齢的にも)普通、タイアップやオファーも減ってきて、ライブの動員もレコードの売り上げも落ちてくる。ごもっともだと思ったんですね。でも、レコードで食ってきた人間だから、食うために、どうすりゃいいんだって…それで、ライブに戻ろうと」
ドラマーの青山純さん(13年に56歳で死去)が、健康の問題で長時間のライブでの演奏が難しい状況だったこともあり、リズムセクションの刷新に着手。ドラムに小笠原拓海(42)を加えた。
「ライブは90年代も、青山純が具合が悪くなってなかなか、やれなくて。そこで、ドラム探しを始め、1年7カ月かけて、17人オーディションして、小笠原君を見つけて再開したんです」
ライブ再開の、もう1つの大きな引き金として、世界有数の音響と評価された初代の大阪フェスティバルホールが08年12月30日に閉館したこともあった。キーボードにも柴田俊文(65)を加え、08年12月5日に神奈川・厚木市文化会館で「PERFORMANCE2008-2009」をスタートさせた。大阪フェスティバルホールでは同12月18、19、27、28日に公演を開催した。
そうしてライブを再開すると、山下の状況は大きく好転した。05年10月発売のホンダ・ライフのCMソング「白いアンブレラ」以来の新曲として、08年3月にフジテレビ系月9ドラマ「薔薇のない花屋」の主題歌「ずっと一緒さ」をリリース。09年にアニメ映画「サマーウォーズ」(細田守監督)の主題歌「僕らの夏の夢」、10年には映画「てぃだかんかん~海とサンゴと小さな奇跡~」(李闘士男監督)主題歌「希望という名の光」と、新曲を相次いでリリースした。
「ライブで生きていこうと思ったら、再開した途端にタイアップが増えたんです。面白いもので。それで、今まで続いているんです。ライブは大事なんですよ。90年代にも、いろいろトラブルがあって6年、ライブができなかったですけど、あの時代にきちんと続けていたら、もうちょっと違った展開ができたのかも知れない。でも、ライブは結構、肉体的にも精神的にも疲れるんですよ。だから違った問題が起きたかも知れない。結果オーライです」
ライブを再開したことで、タイアップが増え、シングルを出し続けられたことが、70代までヒットメーカーとして現役でいられた、ゆえんだと自認する。
「全国ツアーを本格的にやるようになったら、リリース間隔は長くなる。70年代は、ライブはやっていなかったから毎年、出せていたけど、この18年でアルバムは、なかなかできなかった。ですが、運が良いことにタイアップが来たので、シングルは出し続けられたので生き残ることができた。ライブが持続できていたから、ヒットシングルが機能した。サイクルは重要です。いわゆる、ポップカルチャーのパフォーマンスはレコード、アーティストプロモーションが延々、循環していかないとダメなんです」
ライブを全国津々浦々で、可能な限り開催した。そのことで、ファン層が確実に広がっていった。
「ライブは、細かくやるべきだと思ってます。主要都市だけで47都道府県だから、7大都市だと1都市、2公演。この18年で1番、多くやった本数は64。80年に『RIDE ON TIME』がヒットしてツアーやった当時より、多いです。おかげさまで、それだけお客さんが来てくれた。親がお子さんを連れてきて、若い人も増えてくる。好循環ですね」
アリーナではなく、ホールで開催することにも、明確な意味がある。
「音楽をやる以上、音楽に集中してもらいたい。だから、基本的にはホールで、なるべく近い距離で。ダンサーは必要ないし、プロジェクション・マッピングもやってみたけど、(観客の)集中が散漫になるので、やめました。本当はセットなんかなくてオーディオだけでも全然、いいんだけど。(アリーナでのライブで)大量動員するには、音だけじゃ無理なので、大規模なセットは不可避。ひとつの会場に4、5万人を動員したら、いろいろなお客さんが来るから、まんべんなく満足させるには、スペクタクルをやるしかない。それじゃあ、サーカスと同じなんです。そことは一線を画しています」
音楽を作り、届けることが全てだ。
「だから、大きなインカムは、望めません。億万長者になんてなれなくても、音楽をやるんだったら、それで十分と80年代から決めているので。音楽以上のことを、やりたいと思わなかったんで。別に役者になりたかったわけでもないし。CMに1回、出ましたが(80年のmaxellカセットテープ)別にお金が欲しかったわけじゃないし、ディナーショーなんて興味ないし。純粋に音楽を機能させるためには、どうしたらいいかっていう方法論を、いろいろ考えた結果が、こういう方針になったんです。だけどまさか、21世紀まで続けられるとは、思わなかった」
そうしたプロモーションを、山下とともに作り上げたのが、所属していたバンドSUGAR BABEが1976年(昭51)3月31日に都内のライブハウス・荻窪ロフトで開いた解散ライブに足を運んだ時に初対面し、タッグを組んだ小杉理宇造氏(78)だ。テレビに出ないなどのプロモーションが、山下には合っていた。
「僕のビジネスパートナーは『君は最終的に、メガスターになるタイプじゃない。音楽性が難しいし…だから、そこそこの成功でいい』と。将来はインディーのレコード会社を立ち上げて、僕が制作担当をして、彼は宣伝とか経営をやるという計画でした。そのために僕に関して、どういうプロモーションがいいかと言ったら、徹底したネガティブプロモーション。テレビに出さない。音楽番組をやらない。雑誌とラジオのプロモーションだけでいい。それで、そのいいとこ取りだけして10、15年、それをプラスの材料にして、というネガティブプロモーションが、僕には最高に機能して生き残れた。自己分析としては、そんな感じです」
後編は「JOY2」の制作過程、経緯を語る。