音楽プロデューサーで、カリントファクトリー代表取締役の須藤晃さんが10月7日に死去した。74歳。15日に同社が発表した。
葬儀は故人の生前の意向で、近親者のみで執り行われた。後日「お別れの会」の開催を予定している。
須藤さんは富山県射水市生まれ。東京大文学部英米文学科を卒業後、77年にCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社。96年に同社を退社し、カリントファクトリーを設立した。
音楽プロデューサーとして浜田省吾、尾崎豊さん、村下孝蔵さん、玉置浩二ら数多くのアーティストを手がけた。
日刊スポーツが1996年(平8)12月に、連載「歌っていいな」で尾崎豊さんの「卒業」を特集した際、須藤さんにインタビューした。
尾崎さんは「本当は卒業したかった」と話してくれたことが印象深い。
追悼の意を込めて、当時の記事を全文掲載する(一部加筆あり)。
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1984年(昭59)3月15日、東京・青山学院高等部の卒業式が行われた。
巣立っていく生徒たちの晴れがましい列の中に、中退した尾崎豊(当時18)の姿はなかった。
その時、尾崎は東京・新宿ルイードで開くデビューライブのリハーサルを続けていた。
尾崎は前年12月、アルバム「十七歳の地図」でデビューした。尾崎の全身から発せられる緊張と不安と期待が、スポットライトにスタッフの紫煙が揺れる張り詰めた空気に混濁した。
このころ、まだ「卒業」(85年1月発売)は出来上がっていない。が、歌手尾崎豊の原点はこの日にあった。
尾崎と一心同体だった元CBS・ソニーの須藤晃プロデューサー(44、現カリントファクトリー社長)は言う。
「尾崎は卒業したかったんだと思う。高校を中退したことで親、友人、周辺の人々を彼は傷つけたと思っている。卒業できなかったことへの悔いと自己弁護。しかし、自分の意思で学校を離れたことをメッセージにしたかった。それが『卒業』だったと思う」。
家庭、学校、大人社会。あらゆるものからの束縛に抵抗した尾崎の生きざま。そして、「卒業」という曲の誕生。
尾崎に対する若者の共感は絶対的な支持に変わり、カリスマ的存在になった。その尾崎が「卒業したかった」と聞くと一瞬、オヤッとも思う。
須藤氏は「尾崎は不良ではない。精神的には優等生で、教師的タイプなんです。それでいて学校もやめ、『卒業』という歌もつくる。彼は束縛されることから逃れるために中退したのではなく、とどまってもよかったが、卒業してしまえば自分の中で何も解決しない、と感じて中退した。彼はすごく最終的な決断をするタイプなんです」と言う。
「卒業」がヒットした翌年、2、3の高校から須藤氏に「同曲の歌詞を国語のテスト問題に使いたい」と依頼があった。
須藤氏は著作権の問題もなく、断る理由もないとして快諾した。
テストでは「『仕組まれた自由』の意味を説明しなさい」との設問がつくられた。
須藤氏はテストに使用した学校の「文学的な価値として大変優れているから」という理由を、尾崎に伝えた。尾崎は「えー、そうですか」と本当にうれしそうな顔をしたという。
尾崎は1992年(平4)4月25日、都内の路上で肺水腫(しゅ)で倒れ、26歳の若さで帰らぬ人となった。
抵抗する10代の「代弁者」のままで逝った。尾崎には妻も子供もいて、事務所の社長でもあった。
自分のCDをプロデュースしてくれる須藤氏は東大出身。そのCDが売れ、尾崎は資本家になった。
10代のころの抵抗した世界に、自分自身がいる。尾崎は「卒業」の本当の意味である“完全な自由”は、もう得られないと感じていたのかもしれない。
その劇的な生きざまは、今も若者に強く支持されている。9月30日に発売された通算10枚目のアルバム「愛すべきものすべてに~YUTAKA OZAKI BEST」は100万枚突破が秒読み。
発売元のソニー・ミュージックエンタテインメントでは「最高はデビューアルバムの『十七歳の地図』の200万枚ですが、尾崎さんの死去後の反響も含まれた数字。このベストアルバムは今後、この数字を超えるでしょう」とみている。
11月29日、卒業式当日の新宿ルイードでのライブが初めてビデオ化され「OZAKI・18」というタイトルで発売された。
18歳の尾崎がステージで絶叫する姿と、卒業式を終えて応援に駆けつけた同級生の姿も映っている。
「尾崎、頑張れよ」の声援に感激する尾崎の純粋さは、26歳で人生を卒業するまで変わることはなかった。【笹森文彦】