阪神園芸神整備で守る甲子園の土/ニュースの教科書

甲子園球場で水をまく阪神園芸の職員

「甲子園の土」が話題です。夏の全国高校野球選手権大会が新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため中止になったことを受け、プロ野球の阪神球団と甲子園球場が「土」を入れた容器付きキーホルダーを、全国の3年生部員全員に贈ることになったのです。出場した選手たちが必ず持ち帰る甲子園の土-。それは、こだわりと愛着を兼ね備えた、グラウンド整備のプロといわれる名グラウンドキーパーたちによってもたらされたものでした。【玉置肇】

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春や夏の甲子園で、試合後に選手たちがベンチ前の土をすくう光景は、テレビなどでおなじみです。この土を整備し、守っているのが、甲子園球場を管理する造園会社「阪神園芸」の名グラウンドキーパーたちなのです。雨天でグラウンド状態が悪くなっても、名人たちの整備にかかれば、開始時間が多少ずれ込むだけでプレーボールにこぎつけてしまいます。

試合前日、土の部分の内野グラウンドには大型の防水シートが敷かれます。当日、雨が小降りになると作業員が連係よくシートを巻き取り、たまった雨水を吸水ローラーやスポンジで吸収していきます。さらに、軟弱な部分に新しい土をまき、グラウンドキーパーがトンボというアルファベットの「T」の字を逆にした道具でていねいにならすのです。こうして試合開催を可能にする作業の手順は、広く「神(かみ)整備」と言われるほどです。

名人たちの土へのこだわりには、並々ならぬものがあります。元々、甲子園球場は武庫(むこ)川の支流を埋め立てた跡に建設されました。それだけ、水はけがよく、乾きが早い土が求められました。

使われるのは、黒土と砂が混ざった「混合土」です。黒土は、岡山県津山市日本原(にほんばら)、三重県鈴鹿(すずか)市、鹿児島県鹿屋(かのや)市、大分県豊後(ぶんご)大野市三重町、鳥取県大山(だいせん)町などの土をミックスしたもの。これに京都府城陽(じょうよう)市産の山砂を混ぜるのです。

黒土は保水性が高い一方、雨上がりにはグラウンドがぬかるんでしまいます。そのため滑り止めとして、砂を混ぜるのです。特に春は雨が多いので砂を多めに、夏はボールを見やすくするために黒土を多くするなど、季節によってその割合を変えています。甲子園のグラウンドの色が、春は「白っぽく」、夏は「黒っぽく」見えるのは、このためなのです。

こだわりは、まだあります。甲子園の土の特徴は、地表から30センチの深さまでが混合土になっています。ほかの球場は約10~15センチといいます。地表からの混合土の厚みがない場合、強い雨だと吸収する前にドロドロになってしまい使えなくなります。でも厚みがあれば、じっくり吸収されることで水があふれることを防ぐことができます。甲子園球場のグラウンドは、水はけがよく、さらに吸水性にも優れているのは、この厚みのためです。吸水性を保つことで、土が乾いたときに起こるイレギュラーも少なくなる仕組みです。

6年前の日刊スポーツの紙面に、阪神園芸の元グラウンドキーパー、辻啓之介さんのインタビュー記事が掲載されていますので紹介します。その言葉からも、「雨に強い」一面が浮かび上がります。

「今のような天気予報がない時代、甲子園浜の漁師に聞いたりして判断したものです。(中略)甲子園の天気は特殊です。六甲山と武庫川が近く、淡路(島)の山もある。山があれば雨雲が来ても、そこで雨を落とす。雨雲が六甲山を通過するとき、かなりの雨を落としてしまう。だから、他地域は雨でも甲子園は晴れているような現象が生まれるんです」

甲子園球場のある西宮市南部から西の神戸市、明石市、姫路市南部にかけての地域と淡路島北部は、兵庫県の年降水量が最も少ない地域に当たります。雨が少ない立地条件のうえ、水はけがよく、吸水性にも富んだ混合土。そこに、名グラウンドキーパーたちの愛着に加えて、厳しい練習や地方大会を経て来た選手たちの思いが、1戦1戦ごとに染みこんでいきます。甲子園の「土」は、それだけ重みを増して、なおさら何ものにも代えがたい記念になるのかもしれません。

<「甲子園の土」歴史>

選手がいつごろから土を持ち帰り始めたのかは、はっきりしません。ただ、この土をめぐって、いろいろな出来事が起きています。

◆1937年(昭12)夏の大会に出場した熊本工は決勝戦で中京商(愛知、現中京大中京)に敗れ、準優勝。試合後、熊本工の川上哲治投手(後の巨人監督)がユニホームのポケットに甲子園の土を入れ故郷に持ち帰り、練習場にまきました。

◆1949年(昭24)夏の大会。ベスト8で敗れた小倉北(福岡、現小倉)のエース、福嶋一雄投手は本塁後方で足元の土をズボンの後ろポケットに入れながら、帰郷すると忘れていました。大会役員からの励ましの速達で思い出し、玄関の植木鉢に入れ直しました。

◆1958年(昭33)夏の大会では当時、米国統治下にあった沖縄から、春夏通じて初の出場校、首里(しゅり)が登場。1回戦で敗れ、試合後に土を拾って帰途のため乗船しましたが、「外国の土や動植物は検疫を経ずに持ち込むことはできない」法律のため、那覇港の沿岸に捨てられてしまいました。このことを知った日本航空の客室乗務員らが、球場周辺の海岸の石を拾い、チームに寄贈しました。

敗者だけではなく、優勝校も持ち帰るようになったこの「土」。例年なら、大会期間中に「1トン」近い土が、持ち帰りのため消えるそうです。

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◆玉置肇(たまき・はじむ)83年入社以来20年以上、主にプロ野球の取材にかかわる。94年(平6)には長嶋巨人の「10・8」最終決戦を取材。その経験を買われ? 当欄では野球のほかスポーツ関連の記事、用語などについて説明します。7月は、高校野球の地方大会に代わる代替大会を取材に各地を回ります。