妹よ…生島ヒロシの10年、頑張る姿見せるのが供養

発生から10年を迎える東日本大震災について語る生島ヒロシ(撮影・小沢裕)

<あれから10年…忘れない3・11~東日本大震災~>

フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)は、2011年3月11日、仙台市内で東日本大震災に遭遇した。

故郷の宮城県気仙沼市に住んでいた、妹の喜代美さん(享年57)を亡くした。妹の夫の遺体は、いまだに見つかっていない。この10年間を振り返り「頑張っている生きざまを見せることが供養になる」と言葉に力を込めた。

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10年前の3月11日午後2時46分、生島は仙台で講演会の最中だった。「いきなり、ドーンと来てね。1000人くらいの前だったんですけど『皆さん、隠れてください。私は死ぬまでマイクを離しません』って。まだ、そういう余裕があってしゃべり続けていたんです。そうしたら後ろから鉄のオブジェが倒れてきた。あと10センチ、ずれていたら頭を直撃。危なかった」と振り返る。

やがて電気が止まり、講演会は中止。会場の外に出ると電柱が大きく揺れて、電線が切れそうになっていた。翌日、東京で番組があったため、1時間探してタクシーを拾った。5台乗り継ぎ、15時間、約15万円かけて12日の朝方に東京にたどり着いた。

「その前月におふくろの美ち子が85歳で亡くなって、気仙沼で葬式を営みました。妹は(震災翌々日の)13日に東京で営む四十九日法要のために、11日の午後3時15分に気仙沼を出る在来線に乗る予定だったんです。午前中の電車もあったけれど、午後出発にした。それが、返す返すも悔やまれる」。

妹からは震災直後、生島の妻に無事を伝える電話があり「遺骨を持って行けなくなった」と、連絡してきた。

「僕が小学4年、10歳で妹が7歳の時に、チリ地震による津波があった。おやじに『喜代美を頼む』って言われて、岡の上に逃げた。3・11の1週間位前にも地震警報が鳴り、その時は30センチ程度の波だった。だから大丈夫だろうと、家に戻ったと思うんですよ。女房は『逃げて』って言ったんですけれどね。多分、電話の15分くらい後に流されてしまったんじゃないかな」。

11年3月13日付の日刊スポーツは社会面で「妹夫婦と連絡とれず 生島ヒロシ心痛」と伝えている。

遺体が見つからないまま、11年9月、塩釜にある妹の夫の実家で、夫妻の葬儀を執り行うことになった。「その当日に宮城県警から連絡が来て、DNA鑑定で妹の遺体が分かったと。でも、旦那さんの遺体は、まだ見つからない。おふくろのことが落ち着いたら、面倒を見てくれた妹夫婦にはハワイ旅行をプレゼントしようと思っていた。おふくろの遺骨も流されたまま。2月の葬儀の後に持ってくればよかったんだけれど、おふくろは妹と仲が良かったからしばらく置いておこうと。それが自分の中で後悔です」と口にした。

「ただ、これも運命かと。後に、めいっ子から、2日前の3月9日に妹の夢枕におふくろが立ったと聞きました。何かを伝えようとしてたんでしょうね」。

あれから10年。被災した東北の街は、30年かかるところを10年で復興したと言われることもある。「ただ、被災者にとっては10年でも長い。気仙沼も人口は減るし、心配と言えば心配」と顔を曇らせる。

この10年間続けてきたことがある。「地震から10日もたってない時に、アッコさん(和田アキ子=70)から言われたんです。『きついことを言うようだけど、亡くなったと思って、腹をくくれ』と。その後、2人で話し合って基金を立ち上げました」。両親を震災で失った子供たちが高校を卒業するまで、何らかの手伝いをしよう-。基金は「アッコヒロシ基金」と、命名した。

「月命日に、義援金を送ろうと。最初、アッコさんからは100万円が届きました。何年続くか分からないから、身の丈でやらせてほしいと30万円になり、10万円にしてもらって、今も続いてます」。

基金では13人の子供たちを支援してきた。今は、1人が高校に通うだけになった。「今後は他の学校の子供たちにも機器を買うということを続けていこうと思っています」と話す。

「人間が嘆き悲しむのに区切りを付けるとされる『百か日法要』は、『卒哭(そっこく)忌』ということを知りました。残された人間が嘆き悲しんでいると、あの世に行った人もつらいはずだと」。

生島は98年4月から、月曜~金曜の午前5時にTBSラジオ「おはよう定食/一直線」のパーソナリティーを務めている。「朝から元気な声を聞くと、パワーをもらえると言ってくれる人がいる。頑張っている生きざまを見せることが、亡くなった人への最大の供養になると思っています。そして、若い世代にエールを送るというか、手を差し伸べて行くことが自分の役目だと思っています。継続が大切。打ち上げ花火じゃなく、被災した子供たちに、コツコツ身の丈でやって行こうと思っています」。

支援の手は生涯、続けていくつもりだ。【小谷野俊哉】

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経済学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。