モアミュージック、モアトーク…音楽配信サービスが出来ないラジオの未来が

生放送前にスタジオでインタビューに臨むスージー鈴木さん(撮影・小沢裕)

<オトナのラジオ暮らし>

日本の現代文学には「ラジオ文学」というジャンルがある。語られることは少ないが、実は名だたる作家による佳作が、いく編も生まれている。音楽評論家のスージー鈴木さん(54)がこのほど、「恋するラジオ」(ブックマン社)を出版し、ラジオ文壇デビューした。著作を通じて何を語り、描きたかったのか。スージーさんに聞いた。【取材・構成=秋山惣一郎】

50余年の人生を通じて、ずっとラジオを聴いてきました。小4で深夜放送にはまって、はがき職人になった。音楽を本格的に聴き始めたのもラジオからです。実家の子供部屋で聴いてたトランジスタラジオ。「ツーショットダイヤル」で出会った女性とのドライブ帰りに流したカーラジオ。父の訃報が飛び込んできた時、職場のパソコンもラジオにつながってた。デバイスは変わってもいつもラジオで音楽を聴いていました。本書は自伝的小説という形ですが、1970年代から現在まで、人々がどうやって音楽と接してきたかという編年史であり、あのころ、あの街で、私が聴いていた音楽の同時代的評論でもあります。

本書で紹介しているのは、アリス、クイーン、サザン、小沢健二ら、40、50代にはなじみ深い曲ばかり。同世代に共感してもらいたいのがいちばんですが、若い世代に昔の名曲を知ってほしいという思いもあります。今はナイスミドルな吉川晃司が、どれほどやんちゃでチャレンジングなアーティストだったか。レベッカのボーカルNOKKOの歌声が、いかにパワフルでエモーショナルか。同時代の視点で記録した活字のおもしろさを伝える、ということもやってみたかった。その舞台回しにラジオを使った、というわけです。

私がラジオを聴き始めた70年代後半、バグルスの「ラジオスターの悲劇」という曲がヒットしました。ビデオという新しいメディアが登場し、ラジオスターの存在をかき消した、といった趣旨の曲で、多くの人がラジオの未来を悲観していた時代です。それから何十年、ラジオはずっと「他の媒体に取って代わられる」と言われてきました。確かにラジオというメディアの存在感が薄れたことは、間違いない。でも40年来のラジオリスナーである私は、悲観していません。ラジオにしかできないこと、やるべきこと、方向性が見えているからです。

先日、「アメリカン・ユートピア」という映画を見ました。作中、米国のバンド、トーキング・ヘッズの曲が流れたとき、私がラジオの深夜放送を聴き始めたころ、フォークシンガーのばんばひろふみが「彼らの曲は、1コードで続いていくところがいいんだよ」と語っていたのを思い出しました。何と重要な解説だったのでしょう。小学生だった私が50歳を超えて、思い出すのですから。私がパーソナリティーを務めるラジオ番組について、ありがたい言葉をもらいました。「この番組は『つべこべ言わず聴け』ではなく、『(DJが)つべこべ言うのも聴け』だ」と。ヒットチャートやリクエストの曲をかけるだけじゃなくて、ばんばひろふみみたいに「つべこべ言う」。「モアミュージック、モアトーク」。定額制音楽配信サービスにはできない、ラジオの未来がここにあります。

80年代にあれほど人気を集めたおニャン子クラブは、日本の歌謡史において、いかにも軽んじられています。でも、メンバーの新田恵利が歌う「冬のオペラグラス」なんか、良質なアメリカンポップスのフレーバー漂う名曲ですよ。「スージー鈴木は間違ってる」「分かってない」と思うかもしれない。ならば、あなたの意見を言えばいい。それが楽しいんです。

文学も同じです。ラジオと文学って、いずれも音声だけ、文字だけ、1次元的な世界です。でも、映像で視覚を規定されない分、ふくよかな想像力を膨らませることができるという共通点がある。好きな歌や本に喚起された世界をぶつけ合う。ビールでも飲みながら、語り合えたら最高に楽しいじゃないですか。聴くだけ、読むだけじゃなく「つべこべ」言い合う感じ。それが、ラジオとさまざまな文化を豊かにしていくんだと思います。

◆スージー鈴木(すーじー・すずき)1966年(昭41)、大阪府生まれ。洋邦のポップスからプロ野球、高校野球の応援歌まで、幅広いジャンルの音楽評論を手がける。千葉市のFM局ベイエフエム「9の音粋」(月曜午後9時~)パーソナリティー。著書に「いとしのベースボールミュージック」「サザンオールスターズ1978-1985」など。BS12の音楽番組「ザ・カセットテープ・ミュージック」(日曜午後9時~)に出演。第1期バレンタイン監督時代からのロッテファン。

■関口靖彦ダ・ヴィンチ編集長お薦めラジオ文学

ラジオはなぜ文学の題材に選ばれるのだろうか。「大竹まことゴールデンラジオ!」(文化放送)で書評を担当する、書籍情報誌「ダ・ヴィンチ」(KADOKAWA)の関口靖彦編集長は「ラジオも読書も基本的には1人の行為で、求められるものが似ているのではないか」と分析する。その上で「1人で誰かの言葉を聴き、誰かが書いた文章を読んで、自分なりの理解、想像を広げられるのが文学とラジオの共通点。本好き、ラジオ好きは、孤独ゆえの豊かさを楽しみたい、といった気持ちを持っているのだろう」と話す。

そこで、関口編集長に近年のおすすめラジオ文学を紹介してもらった。

「どうかこの声が、あなたに届きますように」(浅葉なつ著、文芸春秋)

地下アイドルの奈々子は、ある日、事故で顔に傷を負ってしまう。絶望する奈々子の前にラジオ局のディレクター、黒木が現れ、番組のアシスタントにスカウトされる。奈々子は、さまざまな境遇のリスナーに自らの声を届けることで、アイドルとは違う、新たな自己表現の形を見いだしていく。「リスナーに姿の見えないお前を想像させろ。頭の中で想像されたものは、誰にも否定されないし、奪えない」。黒木の言葉は、ラジオという媒体の本質を突いている。

「明るい夜に出かけて」(佐藤多佳子著 新潮社)

実在のラジオ番組(アルコ&ピースのオールナイトニッポン)を題材にした青春小説。接触恐怖症で人間関係に問題を抱える富山は、同番組のはがき職人。ある日、バイト先で投稿仲間の少女と出会う。「コミュ障」と片付けられがちな若者たちが、コミュニケーションを取ろうともがく。直接のふれあい、対話ではなく、投稿という文字の作品を介してつながろうとする。簡単なハッピーエンドではなく、もがく姿こそが青春なのだ、と気づかせてくれる。

「想像ラジオ」(いとうせいこう著 河出書房新社)

東日本大震災を下敷きにした作品。DJアークという男が、ラジオでしゃべりまくっている。この男は誰だ、どこで何をしゃべってるんだ。読み進めるうちに「想像ラジオ」とは何か、が見えてくる。ラジオは目の前にいない誰かの言葉を受け取って考え、想像するメディア。姿の見えない誰かと「対話」するメディアでもある。その行為を突き詰めていけば、死者との対話すら可能になる。ラジオというメディアの究極を描いた、近年のラジオ文学の最高峰と言える。