ラジオ日本の64年、独自路線と波乱の連続 夏木ゆたか生放送で演歌と懐メロ流しまくり23年

00年4月、巨人長嶋監督に密着取材するラジオ日本の岩田暁美さん(左から2人目)

<オトナのラジオ暮らし>

首都圏第4の民放AM局、ラジオ日本。小さな局だが、開局以来、時に大きな議論や波乱を巻き起こし、業界で独特の存在感を示してきた。聴いている人は少なくても、競馬や演歌を売り物に、リスナーをしっかりつかんでいる。そんなラジオ日本の歴史と今を取材した。【取材・構成=秋山惣一郎】

ラジオ日本が、神奈川県の県域局「ラジオ関東」(ラジ関)として開局したのは、1958年(昭33)。開局から64年。その歩みは波乱に満ちている。

【港ヨコハマのおしゃれなラジオ局】 ラジ関が開局した58年は、横浜開港100年。港町らしいハイカラでエキゾチック、おしゃれなラジ関は、先行する他局とは違うカラーを打ち出した。1つは音楽。いち早く最新の海外ポップスを流し、「洋楽のラジ関」と親しまれた。

【島アナが、60年安保闘争を生中継】 60年6月15日、日米安全保障条約改定に反対する学生らが国会突入を図り、警官隊と衝突。プロ野球中継で知られる島碩弥(しま・ひろみ)アナウンサーは現場に入り、自らも警官から暴行を受けながら実況した。東大生、樺美智子さんが死亡した、この日未明の闘争を現場から生中継した。そのジャーナリズム精神が称賛された。

【全国初、プロ野球完全中継開始】 他局に先駆けて完全中継を開始。開局翌年の59年は105試合、60年は127試合を中継。「ラジ関なら試合終了まで聴ける」と人気を博した。「音楽、スポーツ、ニュース」はラジ関の3本柱となり、出力強化の許可も得て、可聴範囲が拡大。60年代半ばには、実質的な本社機能を東京・麻布台へ移した。

【巨人戦独占中継を獲得、他局は猛反発】 77年、「ニュース、報道番組に読売新聞のクレジットをつける」などの条件で、プロ野球・巨人の主催試合のラジオ独占中継権を得た。ドル箱の巨人戦から閉め出された他局は猛反発。地方局を巻き込む騒動に発展した。

【ラジオ日本の略称巡り訴訟に】 81年、社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に改称、「第2の開局」をうたった。だが「ラジオ日本」の略称がNHKの国際放送「ラジオ日本」と紛らわしいと注文がついた。ニッポン放送からは「略称が類似しており、営業に混同が生じている」として商号、略称の差し止めを求める訴訟を起こされた。

【反共保守で『社会の木鐸(ぼくたく)』宣言】 82年、日本を滅亡から救う唯一のマスコミ、「社会の木鐸(ぼくたく)」たらんと宣言。反共保守、右派の論客をそろえたオピニオン番組を並べ、全番組の6割に及ぶ大改編を実施した。安保、核、自衛隊から憲法、教育、マスコミまでタブーなく切り込む姿勢で、ラジオ業界にとどまらず、社会に大きな一石を投じた。

【ロック、アイドルと絶縁、大人のラジオ局へ】 反共保守路線への転換と同時にロックやアイドルポップスを「音楽と無縁の騒音」と断じ、「このような音楽から絶縁することもラジオ局の責任」と主張。アイドル歌手、ロックミュージシャンを排除し、若者におもねらない大人のラジオ局を目指した。

【会長を電撃解任】 93年暮れの定例取締役会で、遠山景久会長は「国民の電波を預かる放送会社の代表者としてふさわしくない」として解任された。江戸時代の名奉行「遠山の金さん」の子孫とされる遠山会長は67年、社長に就任。独特の経営手腕で巨人戦の独占中継を獲得、大幅増益をもたらす一方、反共保守路線を進めてリスナー、スポンサーの離反、反発を招いた。この年のシーズン前に巨人主催試合の独占中継権を失った。

【「長嶋番」の岩田暁美さんが注目浴びる】 硬派なオピニオン路線から転換を図った90年代、ラジオ日本を全国に知らしめたのは、ソバージュヘアに健康的な日焼けが印象的な岩田暁美ディレクター。巨人・長嶋茂雄監督の番記者として常に隣に寄り添う姿が注目を浴び、さまざまなメディアに採り上げられた。

【ラジオ界のテレ東目指す】 日本テレビのグループ会社となった現在は、どんな番組作りをしているのか。高橋充・編成部長は「少し前のテレビ東京のようなイメージの局を目指したい」と話す。「人気タレントの起用は、経営体力的に難しいので無名でも個性的なパーソナリティーで、ちょっと変わっているが、マニアックでおもしろい番組作りを大切にしたい」という。

土曜深夜にアイドルの番組を集中的に編成する一方、週末の夜は洋邦の名盤を放送する大人向けの時間帯を作った。プロ野球は21年シーズンから中継数を減らし、今季は31試合の予定だが、売り物の競馬中継は、週末の午前9時半から午後4時半まで放送している。高橋部長は「出力は他局の半分で、以前は聞こえづらい地域もあったが、ラジコの登場で全国で聴いてもらえるようになった。個性的でおもしろい番組をそろえているので、ぜひ聴いてほしい」と話している。

■演歌と懐メロ流しまくって23年 夏木ゆたかに聞く

平日午後、2時間50分の生放送。ひたすら演歌と懐メロを流しまくって23年。「夏木ゆたかのホッと歌謡曲」は、ラジオ日本の看板番組だ。演歌は同局の売り物の1つ。なぜ今、演歌なの? パーソナリティー、夏木ゆたかに聞いた。

「ラジオ日本のお偉いさんは『うちは演歌で行く』と言い切ってます。そうでなきゃ今の時代、演歌ばかり流す番組を、ここまで辛抱して続けてくれませんよ。でもね、演歌を本当に好きな人はいるんです。僕の番組をラジコなんかで探してでも聴いてくれる。ありがたいです」

-番組では昭和の歌も流します

「岡晴夫や榎本美佐江ら昭和20年代の曲も流します。これには考えがあって、73歳の僕がしゃべってる間に岡晴夫を流しておけば、昭和30年代の舟木一夫さん、橋幸夫さんの曲もまだまだ新しい、ということになるでしょ。10年後には舟木さんが岡晴夫になり、舟木さんのところは五木ひろしさんや森進一さんが来る。そうやって、過去の名曲、ヒット曲を聴き継いで欲しいんです。その時代を代表する曲を古い、知らないと切り捨てるのはもったいないですから」

-夏木ゆたかといえば、ハイテンションで軽妙なトークですが、番組では抑えめです

「毎日、二十数曲かけまくります。僕のトークより、1曲でも多く聴いてほしい。とはいえ、イントロに曲紹介の『語り』を乗せてますから、僕自身は十分にしゃべってると思ってます。イントロをちゃんと聴きたいという声もいただきますが、夏木ゆたかの語りを楽しんでください」

-毎日、演歌歌手がゲスト出演しています

「他局に出演する機会がない人にもどんどん来てもらってます。演歌は終わったと言われますが、歌手、作詞作曲家、レコード会社は今もがんばって新曲を出してます。僕が光を当てようと思ってね。たとえ誰も知らない新人でも、ゲストコーナーの30分はスターとして扱います。『僕が一生懸命に聞いてあげるから、とにかくいっぱいしゃべって帰りなさい』と。氷川きよしさん、山内惠介さん、三山ひろしさん。みんな新人のころに出てもらってます。今は当時を懐かしんでくれますね」

-これからも夏木節全開で、長く続けてください

「芸能生活五十余年、73歳になりました。僕をレギュラーで使おうというテレビ番組は、もうないでしょう。ここが最後になると思います。ただ、いついつまで続けたい、という宣言はしません。テレビもラジオも『明日で打ち切りです』と言われれば、それまでの世界。非情な現実を何度も経験しました。局が使ってくれるならがんばるし、降りろと言われれば黙って去る。キザなようですが、今日の放送を悔いのないよう目いっぱいしゃべる。そんな1日1日を積み重ねていきたいですね」

◆夏木(なつき)ゆたか 1948年(昭23)、千葉県生まれ。69年に歌手デビュー。「スターどっきり【マル秘】報告」「ルックルックこんにちは 女ののど自慢」などの司会、リポーターとして人気を集める。演歌・歌謡曲の新曲、名曲のほか、演歌・歌謡界の最新情報を放送する「夏木ゆたかのホッと歌謡曲」(月~金曜、午後3時~)でパーソナリティーを務める。