沖縄タウンに予想以上の朝ドラ効果 「ちむどんどん」の舞台・鶴見に行ってみた

物産センター横の通路はオリオンビールの提灯が並び、沖縄の資料が壁全体にはられていた

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今年は沖縄県が米国から返還され50周年の記念イヤー。沖縄料理に夢をかけた女性を描いたNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」も好評だ。ドラマの舞台となっている横浜市鶴見区もにぎわっている。多くの沖縄県出身者が身を寄せている「沖縄タウン」と呼ばれるエリア。その中心にある開業36年「おきなわ物産センター」には多くのファンが連日、押し寄せている。親子2代で守ってきたうちなー(沖縄県民)の誇りがいっぱい詰まっていた。

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横浜市鶴見区、仲通。「なかどおり」と読む。

沖縄県が1972年5月15日、日本に返還された。今年は50年の節目。返還よりはるか以前の明治時代から仲通には沖縄県出身者が集まり「沖縄タウン」と呼ばれるようになった。

仲通の県人会のあるビル1階に「おきなわ物産センター」がある。沖縄県の食材がすべてそろう。下里優太社長(41)は沖縄県の高校卒業後、18歳で入社した。当時の社長は父英俊さん(79)-親子2代で沖縄タウンの文化を守ってきた。

下里さん 僕が小さいときに両親は離婚。父は経営していたスーパーマーケットが倒産して、借金だけ残った。それで父だけ鶴見に移住。沖縄タウンには物販専門店がなく、86年5月に物産センターを開業した。僕は5歳。父は「絶対、売れる」と確信があったようです。

英俊さんは店前に自筆で「おきなわ物産センター関東営業所」と書いた。

下里さん 父の見えです。物品は沖縄の親戚を通して仕入れていた。その親戚宅をそんなものはないのに「沖縄本社」として、大きな組織にみせた。この看板の「な」は父の筆跡。お客さんの信頼がほしかったんだと思う。

この作戦が功を奏して、横浜市の大手スーパーチェーンとの縁を持てた。渡り歩く支店の軒先で商品を売りながら、物産センターの場所をお客さんに説明し続けた。物産センターのお客が増えてきた。

90年ごろ食堂と製麺工場をつくった。もちもちとした食感を出すため、麺の生地は半日寝かせた。豚バラ肉を煮込んだソーキもつくった。沖縄出身者を中心に購買力も上がり、年末は正月の食材の買い出しで毎年忙しくなった。2007年には借金を完済できた。

下里さんの2代目社長就任は16年だった。

下里さん 物産センターの存在が知られ、年間で300日は物産展を組んで購買力を上げた。売り上げの停滞した食堂は19年にいったん閉めて、20年10月に「てぃんがーら」の新店名で再スタート。夜営業をやめ、毎週水木曜を定休日にしてランチ勝負で、店内に沖縄県産陶器の販売コーナーなども設置した。

順調に業績は伸びたが「ちむどんどん」効果は予想以上だった。

下里さん 今年5月は売り上げが2倍。1日200個だったサーターアンダーギーの販売も5倍の1000個以上。てぃんがーらも開店前から行列ができた。でも、これはドラマ効果のバブルですから(笑い)。

5年後に鶴見区は区制100周年を迎える。もっと大きな目で将来を見据える必要がある。

下里さん 道の駅をつくれたら、僕はもう死んでもいいです。

親子2代で築き上げた物産センター。その魅力はさらに広がっていきそうだ。【寺沢卓】

■あきさみよ~!「県人会」実在

「ちむどんどん」で鶴見の沖縄県人会会長、平良三郎を片岡鶴太郎が演じているが「横浜・鶴見沖縄県人会」は実在し、その会長を金城(きんじょう)京一さん(73)が務めている。

金城さんは返還前の1969年(昭44)4月に那覇からフェリーに3日間乗って東京・晴海ふ頭にたどり着いた。沖縄では学校の事務員だったが、大学生になりたくて20歳で船に乗った。返還前なので米国籍のパスポートを持って“来日”することとなった。

念願の大学生にはなれなかったが、川崎市から横浜・鶴見区に移り住み、建設関連の会社を経営するまでになった。「返還された1972年が県人会も登録者が多くて2000人ぐらいいた。今では約200人。沖縄出身者が肩寄せ合って生活する意味もなくなってきたのかな」と話す。

朝ドラ効果で注目されているが、コロナ禍でできなかった県人会の主催イベントも3年ぶりに実施する。7月には沖縄相撲大会、8月にはエイサーと沖縄タウンもにぎやかになりそうだ。