終戦後の人々の生きる希望や勇気を…混乱の中で流れた歌謡曲、並木路子「リンゴの唄」誕生秘話

1977年(昭52) NHK「ひるの歌謡曲」に出演した並木路子さん

<ニュースの教科書>

きょう8月15日は77回目の「終戦の日」である。1945年(昭20)8月15日正午、昭和天皇の肉声による玉音放送がラジオから流れ、国民が太平洋戦争の終結を知った日である。数多くの犠牲者を出し、国土は焦土と化した。敗戦の混乱の中で、人々に生きる希望や勇気を与えたのはエンターテインメント(娯楽)だった。特に「リンゴの唄」(並木路子)は、戦後初のヒット曲として大流行した。同曲を中心に、終戦直後のエンターテインメントの“胎動”を振り返る。(敬称略)

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玉音放送は「朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ」で始まる。

玉音とは天皇の肉声の意味。昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」を録音して、45年8月15日正午にNHKラジオで放送された。当時の詔書とは、天皇の命令を伝える公文書のこと。国民は4分37秒の玉音放送で、ポツダム宣言の受諾による敗戦を知ったのである。

長い戦争が終わった。町は焼け野原となり、食糧も行き渡らない中で、人々は必死に生きようと努めた。そんな人々の心の飢えや渇きを癒やしたのが娯楽だった。日本を占領・管理する連合国軍総司令部(GHQ)の検閲や接収などがあったが、文化やスポーツはすぐに息を吹き返した。

その代表が並木路子(当時24)の歌う「リンゴの唄」(作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正)だった。

<歌詞>赤いリンゴに くちびる寄せて だまって見ている 青い空

終戦から約2カ月後の10月11日に公開された映画「そよかぜ」(佐々木康監督)の挿入歌である。並木の映画初主演作である。歌手を目指す少女のスター誕生物語だった。松竹の作品データベースによると戦後に製作され、GHQの検閲を通った第1号映画という。映画は戦前から娯楽の王様だった。ロケは終戦からわずか半月後の9月に始まった。「戦意高揚ではなく娯楽映画を届けたい」という映画人の熱意だった。

映画を見た人は「リンゴの唄」に聞き入った。レコードはまだなく、NHKラジオで並木が歌う同曲が流れたことで火が付いた。大本営発表と軍歌ばかりだったラジオから、歌謡曲が久々に流れた。人々は戦争からの開放を実感し、明るい歌声に魅せられた。実はその歌声には、並木の壮絶な戦争体験が隠されていた。

並木は36年に15歳で松竹少女歌劇学校に入学した。翌年に初舞台を踏むなど順風だったが、戦争が愛する人を次々と奪った。

45年3月9日の東京大空襲で、母を亡くした。無数の焼夷(しょうい)弾で炎が迫る中、並木は母の手を引いて墨田川のほとりに逃げた。熱さで母が川に飛び込んだ。流れは急だった。並木は母の襟首をつかんだ。離すまい、流されまいと必死だった。母の姿が消えた。直後に並木も意識を失ったが、引き上げられた。5日後、警察から呼ばれた。増上寺の遺体安置所で母と対面した。決め手は母の懐に入っていた、並木の松竹歌劇団の給料袋だったという。「私が手を離さなければ…」。後悔が脳裏から離れなかった。

悲劇は重なった。出征していた兄が戦死し、会社員の父も乗っていた船が撃沈され亡くなった。初恋の立教大生も学徒出陣で帰らぬ人となった。並木は悲しみの連鎖を抱えたまま、映画のヒロインに起用されたのだ。「リンゴの唄」の録音の際、作曲した歌唱指導の万城目は「もっと明るく」とダメ出しを続けた。並木は後に「(悲しみを)引きずっていました。明るく歌えと言われても無理だった」と振り返った。

事情を知った万城目は「1人だけが不幸なんじゃない。みんな悲しいんだ」と励まし、録音を中止して「上野に行ってみなさい」と指示した。上野には闇市が立ち並び、大人も子供も必死で生きていた。靴磨きの少年に「いくつ?」と聞いた。少年は「母ちゃんが(空襲で)いなくなったから分かんない」と答えた。上野にはそんな戦災孤児が懸命に働いていた。並木は「この子たちのために、今を必死で生きようとしている人々のために歌おう」と決意した。上野から戻った歌声は一変した。明るく伸びやかで、希望に満ちた「リンゴの唄」だった。

年が明けた46年1月に「リンゴの唄」は、霧島昇とのデュエット曲として、戦後のレコード第1号として発売された。誰もが口ずさんだ。敗戦の暗いモノクロの世界で生きる人々に、「赤いリンゴ」と「青い空」という色彩のコントラストは鮮烈だった。そして「何にも言わないリンゴ」に自分を投影し、黙々と頑張ろうと誓った。発売元の日本コロムビアの社史には「戦後最初のヒット曲」と明記されている。77年を経ても色あせない、戦後を象徴する1曲である。【笹森文彦】

▼参考文献 「詞と曲に隠された物語 昭和歌謡の謎」(合田道人著、祥伝社新書)「昭和歌謡1945~1989」(平尾昌晃著、廣済堂新書)

◆並木路子(なみき・みちこ)本名南郷庸子(なんごう・つねこ)。1921年(大10)9月30日、東京・浅草生まれ。49年にソロ歌唱による「リンゴの唄」のレコードを発表。他の代表曲は「森の水車」「可愛いスイートピー」など。93年から日本歌手協会副会長。99年に勲四等瑞宝章。01年4月7日に心筋梗塞のため79歳で死去。

◆8月15日 玉音放送で国民に戦争終結を公表した日。82年4月に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定された。63年以降毎年、同日に「全国戦没者追悼式」が実施されている。一般的に「終戦の日」「終戦記念日」と言う。アメリカは太平洋戦争の降伏文書に日本が調印した9月2日を対日戦勝記念日(VJ Day=Victory over Japan Day)としている。イギリスは8月15日をVJ Dayとしている。

<戦直後の娯楽>

終戦の日以降の娯楽の主なアレコレを紹介する。

◆舞台(歌舞伎) 2代目市川猿之助一座が、終戦からわずか16日後の9月1日に、東京劇場で「黒塚」など上演。これは戦災者慰問の8月公演用に、配役や衣装の準備が整っていたため即応できた。

◆映画 GHQの事前検閲は「公開許可」「一部削除の上での公開許可」「不許可」があった。

◆GHQの接収と改称 神宮球場は「ステイトサイド・パーク」に改称され連合国軍専用球場に。明治神宮外苑競技場は「ナイル・キニック・スタジアム」に改称。いずれも日本人も使用できた。両国国技館は「メモリアルホール」に、東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」に改称。

◆NHK紅白歌合戦の前身 敗戦の年の瀬を明るくしたいと、NHKが男女の人気歌手約20人が歌で競うラジオ番組「紅白歌合戦」を企画した。しかしGHQが「合戦」は「バトル」(戦闘)を意味すると却下。番組名を「紅白音楽試合」に替え、12月31日に1時間40分生放送された。