「政治家と銅像」 森元首相、菅前首相の建立計画に微妙な違和感…なぜ?

戦後の首相と銅像

<ニュースの教科書>

この秋、森喜朗元首相(85)と菅義偉前首相(73)の銅像の建立計画が相次いで明らかになりました。森氏は「スポーツ界における偉大な功績を顕彰しよう」と政財界、スポーツ界の15人が発起人となって募金活動が行われ、菅氏は600件、2100万円の寄付が集まり、胸像と台座は完成。来春、除幕式が行われる予定です。2人が健在のためでしょうか。銅像となることに微妙に違和感があります。政治家と銅像について考えてみました。【中嶋文明】

東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件が拡大し、組織委員会会長だった森氏も参考人として任意の聴取を受ける事態となっているためか、森氏の胸像建立計画の詳細は明かされていません。一口5000円の募金活動は5月にスタートし、案内状は「先生が残された多くの功績、そのお教えは、スポーツ界のみにとどまりません。多くの方々から尊敬され慕われている先生の顕彰事業を行うため」とうたっています。

菅氏の銅像は、郷里の秋田県湯沢市の有志が進め、既に高さ1・2メートルの胸像、同じく1・2メートルの台座が完成しています。湯沢高校の同級生で事務局長を務める伊藤陽悦さん(元市議会議長)は「普通は実物の1・2~1・3倍くらいの大きさにするそうですが、小柄な方(165センチ)なので1・5倍にしました」と、大きな胸像にした理由を明かします。この秋に台座を設置し、胸像は来年4月に菅氏を招いて行う除幕式でお披露目となる予定です。「胸像だけで800万円。台座と整地費用など合わせ、1500万円です」と伊藤さんは打ち明けます。

銅像は、その功績をたたえ、後世に伝えるため、建立されます。失言は数知れず、組織委員会会長もその発言により辞任した森氏と、わずか1年で退陣に追い込まれた菅氏。違和感を覚えるのは、2人が健在で、記憶がまだ生々しいからでしょうか。「銅像には、死後、つくられる遺像と、生前につくられる寿像があります。顕彰を目的とした銅像の建立が行われるようになった明治時代から寿像はつくられており、別におかしくはありません」と話すのは「銅像時代 もうひとつの日本彫刻史」の著者・木下直之静岡県立美術館館長(東大名誉教授=日本美術史)です。

伊藤博文、大隈重信、板垣退助ら寿像は多く、板垣は夫妻で除幕式に参列しています。近年でも田中角栄元首相、渡辺美智雄元蔵相、原健三郎元衆院議長らの銅像は寿像です。政治家に限らず、渋谷の忠犬ハチ公像も初代は寿像で、ハチは除幕式に参列しました。

では、もやもやとした違和感の正体は何なのでしょうか。全国の個人顕彰銅像のデータベース化を目指している「日本の銅像探偵団」の遠藤寛之団長によると、政治家の銅像は少なくなっているそうです。歴代首相では1980年代までの首相は中曽根康弘氏を除き、就任早々の女性スキャンダルで参院選に大敗し、69日で退陣した宇野宗佑氏を含めて銅像になっています。しかし、90年代以降は在職中に病に倒れ、宿願の沖縄サミットを前に死去した小渕恵三氏だけです。

国会議員は在職が50年を超えると、特別表彰され、引退時または死亡時に名誉議員の称号が贈られ、国会内に胸像が設置されるのが慣例とされてきました。88年に死去した三木武夫氏の胸像は慣例通り90年に衆院正面玄関ホールに建てられましたが、その後、有資格者となった桜内義雄氏(00年引退、03年死去)原健三郎氏(00年引退、04年死去)中曽根康弘氏(03年引退、19年死去)の胸像はつくられていません。衆院事務局は「機運があれば、議院運営委員会で協議することになるが、今のところ、ありません」と話します。国会改革の一環として2000万円かかるとされる胸像の制作には異論が出るようになり、与野党合意が得られなくなったためです。

個人顕彰の銅像の減少と、日本経済の「失われた20年」は重なっているようです。「バブル期までは寿像を自分の会社の中に建てる社長がいましたが、少なくなりました。銅像制作会社から個人の銅像の受注は減っていると聞いています。増えているのは町おこしのキャラクター銅像で、個人顕彰から町おこしにシフトしている。偉人像でも握手ができる坂本龍馬とか、町おこしにつながるつくりが多くなっています」(遠藤団長)。

木下館長は「昔と一番違うのは場所です。昔は駅前や公園に建てることが許されましたが、今は公有地、公的な空間に建てることに批判が起こる。政治家の評価の問題も絡み、一番難しい問題です。アニメや漫画のキャラクターは、公共空間の中に立って、まだ多くの国民に共有されますが、個人の銅像は居場所がなくなっている。銅像は除幕式のときに一番光が当たり、後は基本的に放置される存在です。そんな物を建てる必要性はどんどん小さくなっている。今どき個人を顕彰するのに、銅像という形を取ることはひどく時代遅れで、銅像の時代はもう終わっているんじゃないかと思います」と話します。

菅氏の胸像は当初、湯沢駅前の公園に設置する計画でしたが、「公的な場所は難しい」(伊藤さん)として、公園に隣接する私有地16平方メートルを購入しました。森氏の胸像はどこに建立されるか明かされていませんが、うわさに上る新秩父宮ラグビー場など公的な空間の場合、反対の声が広がりそうです。

◆中嶋文明(なかじま・ふみあき)81年入社。最も身近な銅像といえば、二宮金次郎です。二宮尊徳を祭る報徳二宮神社によると、金次郎像は今、少子化による小学校の統廃合で、再びピンチを迎えているそうです。勉強熱心で、手伝いをいとわない金次郎は小学生が目指すべき人物として、1924年(大13)から小学校に建つようになりました。しかし、戦争で供出され、残ったのは2体だけ(報徳二宮神社と明星学苑)という悲しい歴史があります。わが母校も来年4月、統合されます。電話したところ、「経年劣化しており、撤去することになりました」と言っていました。

■伊藤博文、台座だけの像も

首相経験者ではトップの伊藤博文(10体)には、ほかに台座だけが残る受難の像もあります。1904年(明37)、神戸・湊川神社に建立された銅像で、05年、日露戦争で日本が勝ったにもかかわらず、講和条約で賠償金が得られないことが判明すると、民衆の不満が爆発。「女遊びが好きな伊藤には(遊郭がある)福原がふさわしい」と、像を引き倒し、福原まで引きずり回して小便をかけるという事件が起こりました。伊藤は「神戸には2度と行かない」と激怒したといいます。09年に伊藤が暗殺されると、同情の声が高まり、11年に神戸・大倉山公園に再建されました。しかし、戦争で物資が窮乏した43年、金属供出で銅像は姿を消しました。9・15メートル四方、高さ5・7メートルの巨大な台座だけが残っています。

■1位は坂本龍馬

「日本の銅像探偵団」の調べでは、二宮金次郎、空海、日蓮の銅像は集計し切れないほど多く、全国に1000体以上あると推定されています。このため、探偵団では、この3人は「殿堂入り」とし、「銅像建立数ランキング」の1位は銅像33体、FRP(繊維強化プラスチック)像9体、計42体の坂本龍馬としています。2位の松尾芭蕉は銅像37体、FRP像1体で、銅像に限定すると、芭蕉が上回ります。龍馬は2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送前後に制作されたFRP像が多く、芭蕉を超えました。探偵団では高知・桂浜の龍馬像、仙台城跡の伊達政宗像、東京・上野の西郷隆盛像、東京・渋谷のハチ公像、札幌・羊ケ丘のクラーク像を「日本5大銅像」(銅像ファイブ)と名付けています。

■「サザエさん」「こち亀」は富山・高岡製

銅像はかつて高村光雲、朝倉文夫、北村西望ら近代日本を代表する彫刻家も手掛けましたが、現在はほとんど銅像会社の制作です。特に富山県高岡市が盛んで、9割は高岡製といわれています。菅氏の胸像も高岡で創業したメーカーの制作です。高岡は前田利長が1609年(慶長14)に鋳物師を移住させて以降、鋳造が盛んで、明治時代に入ると、銅像制作が始まりました。屋外銅像第1号の金沢・兼六園の日本武尊像(1880年建立)も高岡製です。鳥取県境港市の水木しげるロード、東京・桜新町のサザエさん一家、亀有の「こち亀」ファミリー、四つ木の「キャプテン翼」、鳥取県北栄町のコナン通り、新潟市の水島新司まんがストリート、熊本県の「ワンピース」麦わらの一味など、高岡生まれです。