オールナイトニッポンはどうやって生き残ったか「デジタル」で盛り返し 冨山Pに聞く

ニッポン放送「オールナイトニッポン」の冨山雄一プロデューサー

<ニュースの教科書>

誰もが青春の思い出の1ページとともにあるラジオの深夜放送。その代名詞ともいえるニッポン放送「オールナイトニッポン」(以下ANN)が55周年を迎えた。ライバル局の名物深夜番組が終了する中、テレビの誕生、そしてネット隆盛のこの時代をどう乗り越えてきたのか。55時間特番(17日午後6時スタート)を前に、音声配信やイベント開催のほか、デジタル展開を積極的に行ってきた経緯を冨山雄一プロデューサー(41)に聞いた。【竹村章】

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1960年代後半。大学紛争の嵐の中、ラジオの深夜放送は黄金時代を迎えた。67年8月にTBSラジオが「パックインミュージック」、同年10月にANN、69年6月には文化放送が「セイ!ヤング」をスタート。これらは“深夜放送御三家”などと呼ばれ、若者から絶大な支持を集める。テレビは普及するものの各家庭のお茶の間に1台。家族だんらんでの視聴に対し、ラジオは個人のメディアだった。パーソナリティーとリスナーが1対1で築くその世界は強固で、3番組ともそれぞれのリスナーを抱えていた。

あれから55年。唯一生き残ったANNでさえ、順風満帆だったわけではない。現在でこそ首都圏ラジオ聴取率では同時間帯で首位を走るが、ほんの数年前までは民放はおろか、NHK「ラジオ深夜便」の後塵(こうじん)を拝したときも。そんなANNが復活するきっかけとなったのが、10年にスタートし、16年からはタイムフリー機能が搭載されたradiko(ラジコ)だった。

-55周年です

冨山氏 よく盛り返したなっていう感じですね。40周年も45周年も特番をやりましたが、ニッポン放送界わいだけで盛りあがった感じでした。55周年特番の出演者を発表したら、SNSですさまじく拡散されて。10年前にはなかったことだと思います。

-とはいえ深夜放送

冨山氏 放送だけだとラジオのゴールデン帯は午前6~8時です。でも、ANNは36局ネットなので単価も高く、スポンサーにしても一時は4~5社になった時もありますが、今では四十数社に付いていただいています。これは80年代よりも多いのでは。

-マネタイズの方法も広がっています

冨山氏 今までは放送のスポンサー広告しかなかったのですが、イベントを開催することでグッズ展開もできますし、デジタル展開の中で、番組とスポンサーが組んでのタイアップコーナーや、そのための動画を制作したり。CMだけじゃなく、立体的にいわゆる稼ぎどころが増えてきました。ANNとしては55年間で今が一番稼いでいるのでは。

-好転はラジコがきっかけですか

冨山氏 肌感覚だと深夜の番組は95%はスマホで聴かれている感じです。もちろん、ネット局やタイムフリー、ポッドキャストのアーカイブ、違法にアップされたユーチューブを含めてですけど。ラジコはCMもそのままですので、スポンサーにとっては同じです。僕が入社(07年)したころは、若い人はほぼラジオを持っていなかったので、スマホさえあればラジオ受信機を持っているのと同じ環境になったのが大きいですね。もちろん、朝とか時計代わりに聴いていただける時間帯もありますが。

-デジタルは発言がいつまでも残りますが制作の変化は

冨山氏 リアルタイムで聴かれた時代は、夜中の秘密話みたいで、聴いたら終わるものでした。今は基本的にタイムフリーだと1週間は聴き直せます。だから、あまり炎上しないように気にするとか。ただ、僕の感覚だとそれは当然で。昔はいろいろな発言も許されて、甘えてたぐらいな感覚です。

-ラジコはSNSと相性がいいようですね

冨山氏 ユーチューブは映像を見ながらそこにコメントを書くじゃないですか。でもラジコはチャット機能がないので、みんなツイッターに書くんです。すると星野源さんとかナイナイさんとか、放送内容がSNSで流れると、聴いていなかった人がラジコで聴いてくれる。フロー型から、今やストック型になっています。放送したら終わりではなく、ポッドキャストはじめ、全部デジタルで残りますから。

-SNSで影響力のある人を起用

冨山氏 15年に星野さんが、17年に菅田将暉さんが始まりました。今までは1人で聴いていたのが、みんながSNSで感想を言い合う文化が生まれたのが大きいですね。それも、アプリ内で完結せず拡散する。ただ、星野さんは08年から4回ほどクリエイターズナイトに出ていただいて、15年に2回特番をやり、16年からレギュラーを引き受けていただきました。

-ほかには

冨山氏 売れっ子を引っ張るというよりは、順番を踏んでいます。まずは特番で関係性を作ってから。Creepy Nutsさんも4回ほど特番をやってからレギュラーです。テレビ東京の佐久間宣行さんもゲストに出ていただいた時がおもしろく、何度かの特番を経て、秋元康さんの強い推薦もあって今に至ってます。

-イベントでも集客します

冨山氏 金もうけというベクトルではなく、リスナーへのファンサービスというのが原点です。SNSで盛りあがったので、一堂に会してみんなで聴くみたいな。要はラジオのオフ会。マネタイズとかグッズを売ろうみたいのが、先にあったわけではありません。ただ、オードリーさんは日本武道館で、三四郎は国際フォーラムのホールAでやりました。特別なことをやるのではなく、ラジオのリスナーしかわからない企画で、ラジオを聴いてない人が来ても意味がないんです。

-プロデューサーとして大切にしていることは

冨山氏 現在はすべてのメディアがスマホの奪い合いですよね。インスタがあってユーチューブ、ライン、ツイッター、ティクトックがあって。他局がライバルではなく、スマホの中にあるアプリが全部ライバル。聴きに来てもらう間口は増えましたが、聴いてもらうのが難しい時代だなって思います。だから、リアルタイムで同じ時間を過ごそうとしてくるリスナーは、めちゃ大事に思っています。そのリスナーがどう思うかとか、喜んでくれるかな、みたいなところがベースです。

今年70年を迎えたテレビより古く、ラジオは25年に放送100年を迎える。AMの廃止問題が報じられるなど先行きの不透明感はあるものの、DXを活用したANNの生き残り策は、多くのメディアの参考になりそうだ。

◆オールナイトニッポン55時間スペシャル 17日午後6時から19日深夜1時まで55時間に及ぶ特番。45周年を迎えた13年にも45時間特番を放送している。17日のトップバッターはナインティナイン。松任谷由実のゲストは黒柳徹子、タモリのゲストは星野源、明石家さんまのゲストは笑福亭鶴瓶など豪華コラボも話題。ほか、松山千春、菅田将暉、中居正広、SixTONES、福山雅治らが出演する。

◆ラジオの深夜放送 最初は1952年(昭27)、ラジオ東京(現TBS)「イングリッシュアワー」。午後11時30分から深夜1時まで放送された。深夜放送が若者の時間帯となったのは関西地区の方が早い。関東地区では、文化放送が65年8月から、入社2年目のアナウンサーだった土居まさるがDJを務めた「真夜中のリクエストコーナー」。フランクな口調が若者の支持を集め、各放送局は深夜帯の編成を始めることに。67年7月からFM東海が城達也の「JET STREAM」をスタート。その後、TBSラジオ「パックインミュージック」、文化放送「セイ!ヤング」が始まった。

<ANNアラカルト>

◆番組スタート 67年10月から。パーソナリティーはすべて局アナ。月曜は糸居五郎、火曜は斉藤安弘、水曜は高岡寮一郎、木曜は今仁哲夫、金曜は常木健男、土曜は高崎一郎という布陣だった。

◆テーマ曲 「ビタースウィート・サンバ」はトランペット奏者ハーブ・アルパート共作アルバムに収録されていたインスト曲。

◆カメ&アンコー 69年5月からディレクターだった亀渕昭信氏(後の社長)が土曜を担当。火曜の斉藤アナとともに人気を博し、2人が歌唱した「水虫の唄」は20万枚超のヒット。ちなみにレコード会社はCBSソニーで記念すべき邦楽アーティストの第1弾。

◆「帰って来たヨッパライ」 ザ・フォーク・クルセダーズの自主制作アルバム収録曲を、亀渕氏がディレクターを務めていた高崎アナの番組内で流した。リスナーから警備室に問い合わせの電話が殺到。何度も流すうち、同曲は180万枚の大ヒットに。

◆局アナからタレントへ 73年7月からパーソナリティーを一新。月曜小林克也、火曜泉谷しげる、水曜あのねのね、木曜斉藤安弘、金曜カルメン、土曜岸部シロー。ちなみにカルメンは女性パーソナリティー第1号も覆面。ディレクターの幼なじみだった。

◆過去のパーソナリティー 吉田拓郎、笑福亭鶴光、山下達郎、松山千春、南こうせつ、長渕剛、桑田佳祐、明石家さんま、タモリ、ビートたけし、松任谷由実、とんねるず、ウッチャンナンチャン、槇原敬之、福山雅治…。

◆株式会社深夜放送 ニッポン放送の子会社。深夜帯の番組を請け負い、59年10月から「オールナイトジョッキー」がスタート。DJは糸居五郎。ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を最初に流した番組とされる。

◆現在 深夜1時からのANNのほか「0(ゼロ)」(深夜3時)「X(クロス)(深夜0時)「サタデースペシャル」(土曜午後11時30分)「MUSIC10」(月~木曜午後10時)「プレミアム」(土曜午後7時)がある。

▼「オールナイトニッポン月イチ」のパーソナリティー高嶋ひでたけ(80) 初めてANNのDJをやったのが、今から54年前(笑い)。常に新しい挑戦をして笑福亭鶴光さん、タモリさん、ビートたけしさんなど新しい才能を起用してきた。それが今でも続いてる要因じゃないかなと思います。

◆竹村章(たけむら・あきら)1987年(昭62)入社。販売局、編集局地方部などを経て文化社会部。芸能全般のほか、放送局などメディア関連の担当が長い。ラジオとパーソナリティーを扱った連載「ラジオな人びと」を担当。