東日本大震災の発生から今月11日、丸8年が経過する。「復興五輪」とも呼ばれる来年の東京五輪へ、1人のトップ選手がインタビューに応じた。大事故が発生した東京電力福島第1原発に勤務しながら、なでしこリーグ「東京電力女子サッカー部マリーゼ」の選手としてプレーしていた、女子日本代表DF鮫島彩(31=INAC神戸)。これほどまで震災被害の中心に身を置き、今も第一線で活躍するトップアスリートは他にはいない。鮫島が考える「復興五輪」とは-。


20年東京五輪が来年に迫る中、晴海選手村(右後方)などがある東京港を見渡す鮫島彩(撮影・三須一紀)
20年東京五輪が来年に迫る中、晴海選手村(右後方)などがある東京港を見渡す鮫島彩(撮影・三須一紀)

鮫島は福島第1原発で働き、原発立地町の双葉町に住んでいた。マリーゼの寮は原発から3キロ圏内。チームが練習、試合をしていたJヴィレッジ(楢葉町・広野町)は同約20キロ地点にあり震災後は、事故の収束や廃炉作業に従事する作業員の拠点になった。

練習用だった芝生のピッチは全面、砂利やアスファルトが敷かれ作業員らの駐車場になり、スタジアムには東電社員用のプレハブが置かれた。そのJヴィレッジは18年7月、一部営業を再開。そして今年2月20日、鮫島は、なでしこジャパンの合宿で震災後初めて、慣れ親しんだピッチに帰ってきた。

「なんかこう、ひと言では言い表せない複雑な心境です。またピッチができてうれしいと思いますけど、自分がいたチームはもうないので、寂しい気持ちもあったり。うん。なんか、ひと言では言えません」


Jヴィレッジ合宿でセンターハウスを背にボールを追う鮫島(中央)(撮影・浅見桂子)
Jヴィレッジ合宿でセンターハウスを背にボールを追う鮫島(中央)(撮影・浅見桂子)

なでしこ合宿で記者団に囲まれたが、気持ちをストレートに言い表せなかった。東電が事故を起こしたという事実があるからだった。

合宿前の都内某所。3・11を間近に控え鮫島は「復興五輪」をテーマにインタビューに応じた。約5年間を過ごした福島の地に思いをはせる。双葉町の生活圏は今もなお、バリケードの中にある。

「悲しいです。でもそれは言うべき立場ではないと思う…」

大好きだった場所を思う気持ち。発信してはいけないと思う気持ち。2つの思いが真っ二つに分かれている。


Jヴィレッジ合宿でシュートを放つ鮫島(撮影・浅見桂子)
Jヴィレッジ合宿でシュートを放つ鮫島(撮影・浅見桂子)

常盤木学園高(宮城)の卒業直後に入団したのがマリーゼだった。いわば社会人人生の第1歩だった双葉郡での生活は、はっきりと脳裏に刻まれている。

双葉町の寮はチーム全員が食堂で食事をし、風呂、トイレは共同。夏はすぐ近くの浜辺に行き、双葉の海でバーベキューもした。北に隣接する浪江町にはよく外食に行き、地域の人とも交流した。南隣の富岡町で有名な「夜ノ森」の桜まつりでは、浴衣を着て地元の人たちも交えて盆踊りをした。仲の良いチームメートと地域の人たちに囲まれ、幸せだった。


10年12月、東京電力マリーゼ時代のMF鮫島
10年12月、東京電力マリーゼ時代のMF鮫島

日常はというと、午前中は第1原発内の事務所で働いた。長く配属されたのは技術部で、庶務として物品購入の処理などデスクワークをした。事務所の窓からは原子炉建屋が見えた。

高卒新人には「お母さん的存在だった」という、メンターが指導してくれた。「私と同じぐらいのお子さんがいらした方でした。隣のデスクに座らせてもらって、仕事も一から、社会に出てやるべきことも全て教わった方でした」と振り返って感謝した。

午後はJヴィレッジにバスで移動し、練習。週末にはスタジアムで、なでしこリーグの試合を戦い、地域のサポーターや東電の同僚社員が応援に駆けつけた。

「まだ、女子サッカーが盛り上がる前。チームも地域の方もみんな、すごく大好きでした」

その地域は東日本大震災に伴う原発事故後、人が住めない場所になった。震災が起きた日、マリーゼはキャンプ中で宮崎にいた。当然、地元に戻れず、そのまま活動休止。鮫島はその夏に開かれるW杯に出場するため、サッカーをしないわけにはいかず、米国のチームに移籍。双葉町の寮に残された持ち物は、一時帰宅が認められた日に母が双葉町に入って、運び出した。

震災が起きた2011年。その年の7月、なでしこジャパンはW杯ドイツ大会決勝で米国を下し、初優勝を飾る。チームは国民栄誉賞も受賞。その陰でインターネット上などでは、鮫島が東電チームの出身であることを中傷する書き込みもあった。


なでしこジャパンは2011年W杯ドイツ大会で初優勝
なでしこジャパンは2011年W杯ドイツ大会で初優勝

11年W杯優勝、12年ロンドン五輪銀メダル、15年W杯カナダ大会準優勝、INAC神戸での皇后杯全日本女子選手権連覇と、輝かしい成績を残してきた旅路でも、福島や双葉郡そして震災のことは、忘れなかった。

その間、日本代表に名を連ね、気付けば東京五輪は来年に迫った。その東京五輪は招致段階で、東日本大震災からの復興を遂げた日本を世界に発信したいと「復興五輪」を最大のテーマに掲げた。

サッカーの宮城開催、野球・ソフトボールの福島開催、聖火を事前展示する「復興の火」、聖火リレーの福島出発など、大会組織委員会、東京都、政府はその大命題の下、さまざまな運営計画を講じてきた。


主役のアスリートは「復興五輪」に対して、どう向き合うべきなのか。震災被害のど真ん中にいた鮫島は、冷静に捉えている。

「『被災地や復興のために頑張ります』という考え方は、差し出がましいのではと思ってしまいます。私たちが勝利を求めて本気で戦う、そのための準備をする。仮にそれを被災者の方々が見て共感していただけたら、少しだけ役に立てたのかなと。それが自然だと思うんです」

11年W杯の優勝もまさにそうだった。

「『震災後の日本のために優勝する』というよりも、1試合1試合、1度も勝ったことがないような相手にどう勝つか、それに必死でした。震災のことは常に頭にありました。でも毎晩、ひたすらミーティング。何くそ根性で、絶対に勝つと突き進んでいました。それを見てくれた日本の方々に、共感を得ていただいたのだと思います」

そう話す場面でも、1つ1つ丁寧に言葉を選んだ。


今もなお、放射線量が高いレベルにあり、立ち入りができない帰還困難区域が、双葉町を含めた7市町村にまたがっている。

先頭に立って復興五輪を発信する-。そんな青写真は描けない。「自分はそんな立場にありません」と、何度も口にした。心の葛藤は8年たっても、まだ消えない。来年、東京五輪の代表メンバーに選ばれたら「自分のプレーをするだけです」と厳粛に言った。【三須一紀】

◆鮫島彩(さめしま・あや)1987年(昭62)6月16日、栃木県宇都宮市生まれ。小1から河内SCジュベニールでサッカーを始める。宮城・常盤木学園高では1年時からレギュラー。2年時から背番号10。卒業後は東京電力マリーゼに入団。11年、米プロリーグのボストン・ブレーカーズへ移籍。その後フランス1部モンペリエを経て、12年7月9日に仙台へ移籍。15年からはINAC神戸。ニックネームはサメ。家族は両親と兄2人。163センチ、53キロ。血液型A。


◆東日本大震災の被害状況 警察庁によると全国で死者・行方不明者が1万5897人・2534人。被災3県では岩手が同4674人・1114人、宮城が同9542人・1220人、福島が同1614人・196人(昨年12月10日時点)。福島の避難状況は県内避難者が9323人(福島県、1月31日時点)県外避難者が3万2631人(復興庁、2月28日時点)。



◆避難指示区域 帰還困難区域(放射線量が高レベルで、避難を求めている区域)、居住制限区域(将来的に住民が帰還し、コミュニティーを再建することを目指す区域)、避難指示解除準備区域(復旧・復興支援策を迅速に実施し、住民の帰還を目指す区域)の3つに分類される。内閣府の資料によると、13年8月には「避難対象者約8・1万人、面積約1150平方キロメートル」だったが、17年4月時点では「同約2・4万人、同約370平方キロメートル」まで減少。