いよいよオリンピック(五輪)イヤーが幕を開けた。13年9月の東京開催決定から7年。メイン会場の国立競技場が昨年12月に完成し、元日のサッカー天皇杯決勝から本格稼働した。同競技場を運営・管理する日本スポーツ振興センター(JSC)の大東和美理事長(71)が強調する「アスリートファースト」。初めてスポーツの公式戦を戦った神戸と鹿島の選手たちに新しくなった「聖地」の印象を聞いた。【取材・構成=荻島弘一、岡崎悠利】

1日、サッカー天皇杯決勝の神戸-鹿島戦
1日、サッカー天皇杯決勝の神戸-鹿島戦

■元日サッカー天皇杯決勝でスポーツ初公式戦

歴史的な「初戦」を戦った鹿島と神戸、観戦したサッカー関係者は新しい国立に満足したようだ。クラブ初タイトルを手にした神戸のドイツ人、フィンク監督は「設備もよく、素晴らしい環境のスタジアムだった」と興奮気味。日本協会の田嶋幸三会長も「我々は聖地だと思っている」と最大級の賛辞を贈った。

実際にプレーする選手たちにも好評だった。陸上トラックがあってサッカー専用ではないため、ドイツで長くプレーした神戸の元日本代表DF酒井は「広く感じた。ちょっと不思議な感覚」と話したが、東京五輪世代の若い鹿島DF町田は「スタンドがそり立っていて、サッカー専用に近い(観客との)距離感だった」と言った。

ピッチの芝も高評価だった。酒井が「(芝の)長さ、深さがヨーロッパに似ている」と感触を口にし、世界のピッチを知る鹿島の元日本代表DF内田も「国際Aマッチの芝という感じ」と絶賛。日本代表歴もある鹿島DF永木は「芝は良かった。完璧です」と喜んだ。

通常の倍の2年をかけて育てた鳥取県産の天然芝。生産した株式会社チュウブ(鳥取県琴浦町)の池本栄樹専務は「スポーツの祭典を下支えしたかった。最高の状態の芝を納入できた」と話している。東京五輪では開、閉会式、陸上のほかにサッカー女子の決勝も行われる。最高の芝で、なでしこがその舞台に立つことができれば、日本の武器のパスも通るはずだ。

1日、サッカー天皇杯決勝で営業するコンコースの売店
1日、サッカー天皇杯決勝で営業するコンコースの売店

スタジアムの随所に見られる「木のぬくもり」も好評。4、5人でいっぱいになるという風呂については「狭い」という声も出たが、選手ロッカーは「使いやすい」と好反応。木材を使用したベンチにはヒーターも完備され、出番のなかった内田もベンチに暖められて「ありがたかった」と笑った。

試合を見た日本代表の森保監督は「音の反響がすごく下りてきて、選手たちへの後押しがあると思う。持っている力以上のものを引き出してもらえると感じた」と話した。メインの一部しか屋根がなかった旧国立に比べ、新たな国立は観客席全体が覆われている。スタジアムに響き渡る歓声が、選手たちの気持ちを奮い立たせる。

11日にラグビー大学選手権の決勝が行われた後、五輪準備のために外装などの工事に入る。5月のパラ陸上、陸上のテスト大会と人気グループ、嵐のコンサートを経て、7月24日に東京五輪が開幕する。アスリートファーストの国立競技場(オリンピックスタジアム)は「全員が自己ベスト」の大会ビジョン実現への、最高の舞台になる。

■観客の反応は

国立初の公式戦を見た6万近い観客の反応も、おおむね良好だった。「意外と見やすい」「設備が新しくていい」…。もっとも、実際に試合を行って出た課題もあった。特に座席に関しては、前席との間隔を問題視する声が多く「足もとが狭くて、通れない」という声があった。勾配を急にして臨場感を優先したため、前後の座席スペースが犠牲になったようだ。

あふれたゴミ箱やトイレの列も目立った。視察した東京大会組織委員会の森泰夫・運営局次長は「ゴミ箱は自由席のお客さまの滞在時間が長く、あふれてしまった。空いているトイレへの誘導案内も不足していたようだ」と話していた。


■陸上イベントで走路が好評

19年12月、国立競技場のオープニングイベントでリレーを走り終えた後、握手するウサイン・ボルト氏(左)と桐生(JSC提供・共同)
19年12月、国立競技場のオープニングイベントでリレーを走り終えた後、握手するウサイン・ボルト氏(左)と桐生(JSC提供・共同)

陸上のスプリンターたちは好タイムへの期待を抱く。タータン(走路)は、モンド社の反発力が強く、タイムが出やすいとされるものが採用されている。12月のオープニングイベントで特別レースを走った小池は「非常に硬くて、反発をもらいやすい。いい記録が出るかもしれない。(雰囲気も)観客と選手の距離が近く、純粋に楽しめる」。また、同じくイベントで走った世界記録保持者のウサイン・ボルト氏は「いい記録が出ると信じています」と感想を述べた。今後は5月5、6日にテストイベント、5月10日にセイコーゴールデングランプリが開催される。


■1月11日にラグビー大学選手権決勝

ラグビー競技としてのこけら落としは、11日の大学選手権決勝。早大と明大は「初国立」の対戦を楽しみにしている。旧国立時代から大学選手権準決勝と決勝、さらに対抗戦の早明戦は国立開催が定着していた。前回決勝で対戦した96年度に選手で勝利した経験を持つ明大の田中監督は「運命的なものを感じて、ワクワクします」と話した。

旧国立での最後の早明戦は13年。今の学生に、当時を知る選手はいない。ただ、かつての「聖地」が両校の伝統を築いてきたことは知っており、新たな「聖地」で試合が行える喜びはある。元日本代表で明大OBの泰治さんを父に持つ早大FBの河瀬は「映像で国立は見ていました。そこに立てるのはうれしい」と、新しい国立でのプレーを喜んでいる。


<国立競技場アラカルト>

◆前身 1958年に開場した国立霞ケ丘陸上競技場(国立競技場)で、58年アジア大会、64年東京五輪のメイン会場となった。

◆完成 19年11月30日に建設を請け負った共同企業体(JV)から日本スポーツ振興センター(JSC)に引き渡し。12月15日に竣工(しゅんこう)式、同21日にオープニングイベントが行われた。

◆観客席 3層のスタンドで約6万席(うち車いす席が約500)。最大傾斜角度は34度。

◆トイレ 男子小・大便器が1027、女子大便器が933、アクセシブルトイレ(主にLGBTなど性的少数者、車いす、障がい者用)が93カ所。

国立競技場の今後の予定
国立競技場の今後の予定

■大東和美JSC理事長に聞く

「多くの国民の皆さんに親しみのあるスタジアムにしていきたい」と語るJSC大東和美理事長
「多くの国民の皆さんに親しみのあるスタジアムにしていきたい」と語るJSC大東和美理事長

-理事長に就任して5年目、責任者として完成まで苦労されたと思います

大東 まずは工期とコストでしたね。無事に完成して、良かったと思っています。と同時に、工事に携わってくださった方々、関係者の方々には、本当に感謝の思いですね。

-期限通りに完成して、ホッとしているのでは

大東 ラグビーに関係する方々は、私もそうなんですけれど、3カ月完成が早ければと思っているかもしれません。結果的にW杯が盛り上がったので、いまさら言っても仕方ないけれど、決勝ができたのではという気持ちはありますね。

-(早大ラグビー部で)選手、監督として(Jリーグ鹿島で)社長として経験されていますが、国立とはどういうところですか

大東 やはり、特別な場所でしょうね。誰もが憧れる競技場。他のスタジアムとは違います。以前は6万人なんて、国立以外なかったですから。歓声がすごくて、選手同士の声が聞こえないんです。新しい国立は屋根もあるし、もっと聞こえなくなるでしょう。

-新しい国立には、選手も期待しています

大東 昨年のオープニングイベントで、(ラグビー日本代表の)リーチが「早くここでプレーしたい」と言ってくれました。(横浜FCの)カズも「ここでプレーしたい」と言っていました。前の国立と同じく、選手にとって「プレーしてみたい」と思われる競技場になればいいですね。

-観客にとって見やすくていいと思いますが、選手目線ではどうですか

大東 プレーヤーファーストは、常に考えていました。ロッカーは最新の設備ですし、入退場口も十分な広さをとるなど、選手が思いきりプレーできるようにしています。観客にとってはもちろん、選手にとっても最高のスタジアムであってほしいですから。

-大観衆が選手の背中を押しますね

大東 「こもれ日」をイメージした観客席は、たとえ空席があっても満員のように見える。これも、選手にはうれしいですね。満員の雰囲気が、選手のプレーを支えますから。こんな観客席は他にはない。できあがるまで分からなかったけれど、(設計した)隈先生は、そこまで計算したのかもしれません。

-東京五輪・パラリンピックで、国立が世界に発信されるのも楽しみですね

大東 世界中の選手たちが、最高のパフォーマンスをしてくれればいいと思います。ただ、マラソンが札幌に移ったのは残念。64年五輪のアベベのように、大会最終日に選手が国立に飛び込んでくるシーンが見られなくなったので。

-観客にも選手にもうれしいスタジアムですが、将来的にどんな国立競技場になってほしいですか

大東 国民のみなさまが親しみを持って来てくれる場所。イベントがなくても散歩をするとか、くつろぐとか。東京大会後の使い方は今後の課題になりますが、周囲は一般にも開放します。みなに親しまれ、気軽に来てもらえる国立であってほしいと思います。

◆大東和美(おおひがし・かずみ)1948年(昭23)10月22日、神戸市生まれ。兵庫・報徳学園-早大とラグビー部で活躍。70年度には主将として大学選手権、日本選手権で優勝した。住友金属(当時)入り後は日本代表でプレーし、キャップ6。76年度には監督として早大を大学選手権優勝に導いた。住友金属九州支社長から05年にJリーグ鹿島専務に就任し、06年から同社長。リーグ初の3連覇を達成した後、10年にJリーグ第4代チェアマン、日本サッカー協会副会長に就任した。14年2月に退任し、15年10月から現職。