福島県葛尾村-。阿武隈高地の山あいの村では、11年の東京電力福島第1原発事故の前、米作りや畜産が盛んだった。聖火ランナーに選ばれた中学3年の佐久間亮次さん(15)は、父哲次さん(43)が村で再開した佐久間牧場で乳牛を追っている。東電の事故前は130頭の乳牛がいて牛乳出荷量は県内JA全農グループで2年間1位。しかし、突然訪れた事故で、牛たちもすべて失った。これからどうするか。哲次さんの背中を押したのは、亮次さんが半紙5枚にでかでかと書いた、挑み掛かるような13文字だった。

佐久間亮次さん(左)と父の哲次さん(撮影・佐藤勝亮)
佐久間亮次さん(左)と父の哲次さん(撮影・佐藤勝亮)

■半紙5枚使用

「ゆめ らくのうかになってやる」。亮次さんが小学5年時に習字の授業で書いた将来の夢だ。他の児童は半紙1枚に夢を書いたが、5枚を使用した。哲次さんは展示会で見た時「恥ずかしかった。なぜルールを守らないと思いました」と言いながらうれしそうに笑った。牛が1頭もいなくなってしまった当時、再び0からスタートするには何かが必要だった。「何かきっかけを求めていた部分もあった」。他の保護者から「立派な息子だな」「跡取りがいるから頑張らなきゃね」と再開する理由を見つけた。

佐久間牧場は、06年の規模拡大により、1回で8頭の搾乳ができる施設「ミルキングパーラー」を設置。その後4年間、毎年125%アップで経営し、12年4月から法人化の予定も進めていた。

2011年3月11日。初めて味わった大きな地震。亮次さんは幼稚園で被災した。幼稚園前の家の瓦が次々と流れ落ち「滝みたいだった」という。哲次さんは、バタバタ落ち着かない129頭の牛を見たという。度重なる大きな余震。暗くなってから、家族はすぐに逃げられるようにと、居間に集まって寝た。

農協からローリーが行けなくなると連絡が入り、牛乳の出荷ができなくなった12日、東京電力福島第1原発1号機が水素爆発を起こし、14日には3号機が水素爆発。村長の指示で、14日の午後9時15分、全村避難指示が出た。哲次さんの父は家族同然の牛を見捨てるわけにはいかないと「逃げない」と言い張った。哲次さんは「津波の人たちは、何も選択することもなく、死ぬしかなかった。生きられる可能性があるならば生きなくてはだめだよ」。牧場の再開には命が最優先だと考え、避難を決めた。

哲次さんが避難後、葛尾村に初めて戻って来られた18日。目にしたのは倒れている数頭の牛だった。「本当に避難したことが正しかったのか-。後悔の念しかなかった」。牛のうめき声が脳裏に焼き付き、2、3年夢を見た。当時6歳だった亮次さんは何も聞かされなかった。

■食肉処分95頭

亮次さんは11年4月、避難先の群馬県邑楽町の小学校に入学し、母と2人で生活した。哲次さんは牛の面倒をみるため、福島市の避難所に戻った。国は乳牛について食用とする処分などを提示。佐久間牧場では95頭が食肉処分を余儀なくされた。妊娠していなかった25頭は北海道上士幌町の牧場に預けた。牧場に1頭も牛がいなくなったのは11年6月30日。処分せざるをえなかった牛たち、目の前で倒れていった牛たちのことを話すとき、哲次さんは今も涙をこらえきれない。

佐久間牧場の牛(撮影・佐藤勝亮)
佐久間牧場の牛(撮影・佐藤勝亮)

哲次さんは12年4月、福島市の避難所を後にし、三春町の仮設住宅で、再び家族一緒に暮らし始めた。大人にとっても「避難生活はストレスがすごく、夢を見ているかのような感覚だった。まだ小さかった亮次に説明しても…」と、牛たちのその後のことも、幼かった亮次さんにはあえて話さなかった。亮次さんは父親が家にいなかったことも「いないのかあ。なんでだろう?」と、ただ不思議に思っていた。

■冷蔵庫の写真

ふとした時、突然自分の夢に出会った。冷蔵庫に貼られていた写真に「ゆめ、らくのうになる」。年長時に酪農の意味も分からず自分が書いた夢だった。「ああ、俺の将来の夢って酪農家なのか」。「ゆめ」は少年の「目標」になった。

16年6月12日、帰還困難区域の野行地区を除き、村の避難指示が解除された。12月から原乳出荷制限が解除され休業の必要がなくなった。県の方針では、牛乳の放射性物質検査で検出限界値未満(ND)を6回以上連続で確認できてから出荷ができる。18年4月5日、3人増えた子どもとともに葛尾村に戻った。牛舎を除染し、9月13日、北海道で購入した牛8頭と新たなスタートを切った。10月19日~12月25日まで、計16回の牛乳の検査で不検出。19年1月11日、7年10カ月ぶりに出荷を開始した。今では牛も130頭に増えた。

■「いつか実感」

亮次さんは週3日、朝5時に起きて、牛を追い掛ける。朝は5~8時。気温が氷点下12度になり、手が霜焼けになる。夕方は3~6時半。「ほら、いけ!」。搾乳のために、牛を施設に誘導する。「朝は眠い。だけど、途中から寒いし臭いしで『眠気が消えた』ってなる」。幼いころの牛の記憶はなく、知識もなかった。今は「詳しくなったなあ」と実感する。「手伝っていると長く感じるけど、村にいなかった時と比べると、時間があっという間だ」。充実感もある。

この春、亮次さんは聖火ランナーとして村を走る。全校生徒8人が宿題で応募した。志望動機には「この葛尾村を支えるのは農業しかないと思っています。僕が走り、葛尾村の農業を世界中の人にしってほしいと思いました。たくさんの人に村の素晴らしさを伝えたいです」と書いた。「将来は、世界中の人たちに僕が育てた牛のミルクを飲んでもらいたいです」。夢はこの村でかなえる。聖火は、そのための1歩だ。「いつかこの貴重な機会を実感するときが来るのかなあ」。本番は26日。緊張するから「何も考えないで走る」と笑う亮次さんだが、その目はオリンピック(五輪)だけでなく、もっと先を見ている。【佐藤勝亮】

牛の搾乳を見守る亮次さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)
牛の搾乳を見守る亮次さん(手前)(撮影・佐藤勝亮)

◆佐久間牧場 亮次さんの曽祖父長治さんが牛を飼い始め、祖父信次さん(70)が1976年(昭51)に本格的に酪農を始める。父哲次さんが3代目で県内の高校を卒業後、札幌市の農業専門学校で酪農を学び、20歳で帰郷。規模を拡大した。12年6月に法人化。震災前、県内1位となる1日2700リットルの牛乳出荷を誇った。今後は搾乳ロボット導入など最先端技術を取り込み、哲次さんら若い世代の力で、福島県の農業を世界に発信することが目標。

◆葛尾村の避難の経過 東京電力福島第1原発から西に約20~30キロの位置にあり、11年3月14日午後9時15分、全村避難。612人が福島市のあづま総合運動公園へ。同年4月22日、葛尾村は警戒区域、計画的避難区域に指定される。13年3月22日、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に再編。16年4月、村に役場機能が復帰。16年6月、帰還困難区域(野行地区)を除き避難指示解除。11年3月11日時点の人口は1567人。20年3月1日時点で住民登録は1406人。帰村者は331人、解除後の移住者88人、計419人が在住。

<被災地と五輪>

政府が「復興五輪」とうたう東京五輪。被災地でも多くの取り組みが設定されている。ギリシャで12日に採火される聖火は20日、東日本大震災の津波で一時機能喪失もその後は救援物資の輸送拠点となった宮城県東松島市の航空自衛隊松島基地に到着する。到着後は、聖火リレーコンセプトである「希望の道を、つなごう」に沿い、20~25日の間、宮城、岩手、福島の順に各2日間、リレーに先駆けて聖火を展示する「復興の火」が実施される。聖火リレーは26日、福島県楢葉町と広野町にまたがるJヴィレッジからスタートする。

競技は福島県営あづま球場で野球・ソフトボールで計7試合、宮城スタジアムでサッカーの10試合が行われる。また、政府は、被災3県で震災時の支援などを通じて交流のあった海外の国や地域に復興の姿を見せ、交流を行う「復興ありがとうホストタウン」を設定。岩手県では大船渡市が米国、陸前高田市がシンガポールなど12件、宮城県では仙台市がイタリア、岩沼市が南アフリカなど8件、福島県では飯舘村がラオス、楢葉町、広野町、川俣町がアルゼンチンなど8件の計28件が登録されている。

福島聖火リレールート
福島聖火リレールート

◆東京五輪聖火リレー 3月12日にギリシャで採火され、8日間のリレーを実施後、日本へ。20日に宮城県東松島市の航空自衛隊松島基地に聖火が到着する。宮城、岩手、福島の3県で2日ずつ「復興の火」として展示。リレーは26日に福島県楢葉町のJヴィレッジからスタートする。47都道府県を回り、7月24日に国立競技場で行われる開会式を目指す。葛尾村は初日の3月26日に行われ、約1・1キロが設定されている。全国で1日あたり80~90人がそれぞれ200メートルほどを走る。