64年東京オリンピック(五輪)聖火リレーは本土復帰前で米国の統治下にあった沖縄からスタートした。国内第1走者を務めたのが当時、琉球大4年だった沖縄国際大名誉教授の宮城勇さん(77)。今年の東京五輪でも沖縄県聖火ランナーを務めることが決まった。2度目の聖火リレーはあらためて平和への思いとともに、第2次世界大戦で若くして戦死した父親への思いも胸に走る。

64年9月7日、東京五輪聖火リレー第1走者を務めた宮城勇さん(本人提供)
64年9月7日、東京五輪聖火リレー第1走者を務めた宮城勇さん(本人提供)

■「願ってもない栄誉、責任を全う」

沖縄県が今回の東京五輪聖火ランナーを募集した際、宮城さんは「前回の東京五輪で聖火ランナーを務めたことで、人生の転機となった。ぜひ、若い人に味わってもらいたい」と公募枠での応募は見送った。周囲の「ぜひ走ってほしい」という声に推され、県実行委員会以外の選定で聖火ランナーに決まった。2度目の大役に「願ってもない栄誉。平和の使者としての意義を胸に、自分の責任を全うしたいと思います」と意気込んだ。

64年東京五輪聖火リレー第1走者を務めた宮城勇さん(本人提供)
64年東京五輪聖火リレー第1走者を務めた宮城勇さん(本人提供)

前回の東京五輪聖火リレー第1走者に内定したとの一報は、駆け付けた新聞記者から知らされた。「大事件。青天のへきれきです」。当時、琉球大教育学部体育学科4年生。体育教員を目指していた。大役を任せられた理由を「正確なところは分かりません。4年生のリーダーを任されていたこと、高校時代、陸上110メートルハードルの沖縄チャンピオンだったことがあるかもしれない」と推測した。

国内はもちろん、海外からも取材が殺到。取材の多さで大役を実感した。当時、米国の統治下で、最も近い鹿児島県に行くにもパスポートが必要な時代。「うちなんちゅ(沖縄の人)の感覚じゃダメだ。日本人としての自覚がないと」と痛感した。

64年東京五輪聖火リレーで、那覇市・奥武山陸上競技場に設置された歓迎の門(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)
64年東京五輪聖火リレーで、那覇市・奥武山陸上競技場に設置された歓迎の門(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)

台風の影響で聖火は予定より1日遅れ、64年9月7日月曜日正午に那覇空港に到着。当時、那覇市内の中学校で体育の教育実習を行っており、1時間目を終えた後、スタート地点の空港に向かった。「後で考えると、そうでもしないと落ち着かない状態だったかもしれません」と振り返った。

■聖火到着空港に2万人駆け付け

宮城勇さんは64年東京五輪聖火リレーで使用したトーチとランニングシャツを今も大切に保管(撮影・近藤由美子)
宮城勇さんは64年東京五輪聖火リレーで使用したトーチとランニングシャツを今も大切に保管(撮影・近藤由美子)

聖火が到着した空港には約2万人が駆け付けた。聖火を乗せた日本航空「シティ・オブ・トウキョウ」号の機体に、一緒にはためく日の丸と五輪旗が目に焼き付いている。

正月や祝祭日以外、日本国旗掲揚は禁じられた時代。米国も聖火リレー時だけは“黙認”した。聖火を日の丸で迎えようと、町中が日の丸で埋め尽くされた。「予想もしなかった日の丸の数でした。暑い太陽の下でも震えが止まらなかったです」。スタートが予定より遅れるほど、万歳の連呼がやまなかった。

空港から奥武山(おうのやま)陸上競技場に向かう1・7キロを走行。9分で走る練習を繰り返した。道路は広くても片側1車線。大勢の観客と取材陣に行く手を阻まれ、予定より1分10秒遅れた。「夢中で走りましたが、時間的にこれはヤバイなと思いつつ走っていました」。時々、沿道で米国の兵士が笑顔で写真を撮る姿が印象に残っている。

■パスポートと両替円持ち東京へ

64年9月8日、東京五輪沖縄県聖火リレー初日の最終走者、徳村政勝さんが聖火宿泊地となった名護市嘉陽地区に到着(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)
64年9月8日、東京五輪沖縄県聖火リレー初日の最終走者、徳村政勝さんが聖火宿泊地となった名護市嘉陽地区に到着(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)

第1走者を務めたことから、ある新聞社から五輪開催中の国立競技場に招待された。パスポートを持って、米ドルから日本円に両替し、東京に向かった。聖火リレー最終ランナーの坂井義則さん(享年69)らとスタンドで陸上競技を観戦した。「感慨深いものがありました」。偶然、知り合った大手映画会社重役の自宅で世話になったことで、貴重な体験もした。スターだった石原裕次郎の別荘に連れて行ってもらったり、当時駆け出しの渡哲也を紹介された。「沖縄との違いに驚きは大きかったです。都会の風が流れていました。地に足がついていない感じ。興奮しました」と振り返った。

沖縄・宜野座での64年東京五輪聖火リレー引継ぎ式(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)
沖縄・宜野座での64年東京五輪聖火リレー引継ぎ式(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)

第1走者の栄誉とともに豊かな社会体験を得て、あらためて誓った。「人生最大の最高のイベントだったなと。そういうことをしたからいいかげんな生き方はできない」。大学卒業後は県内で7年間高校教師を務めた後、沖縄国際大で体育学の教授として、後進の指導に力を注いだ。

今回の聖火リレーで、沖縄県2日目の5月3日に浦添市を走ることが決まった。「生まれ育った浦添市を走れることを誇りに思います」。走行区域は後日、通知される。「平和への思いを乗せて走りたい」と繰り返した。「平和とは何か、日本人も世界の人も、もう1度考えてほしい。とりわけ、沖縄の人はそういう思いではないでしょうか」。

沖縄・辺野古を通過する64年東京五輪聖火リレー(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)
沖縄・辺野古を通過する64年東京五輪聖火リレー(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)

2月上旬、沖縄県糸満市の平和祈念公園を訪れた。敵味方の区別なく戦没者の名が刻まれた石碑「平和の礎(いしじ)」をお参りした。石碑には父親の名前も刻まれている。

父親は20代後半の時、第2次世界大戦で出征。南洋諸島で戦死した。当時1歳9カ月。父親の顔も声も記憶にない。父親を感じられるものは、軍刀を持って立つ1枚の写真だけだ。「父は自分の弟も連れていって、こんな亡くなり方をするとは思ってないと思いますよ。無念だったと思います。父の戦争への思いも考えながら、今回は走ってみたいなとも思っています」。

今回の東京五輪では、ハンドボール女子予選とバスケットボール男子予選のチケットが当たり、妻と上京して観戦する予定だ。「楽しみですね。新しい国立競技場にも行く予定です」と心待ちにしている。【近藤由美子】

64年東京五輪聖火リレーで、聖火が到着した嘉陽地区には、350人弱の村落に3000人が詰めかけた(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)
64年東京五輪聖火リレーで、聖火が到着した嘉陽地区には、350人弱の村落に3000人が詰めかけた(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)

◆64年と20年の東京五輪沖縄聖火リレー 64年東京大会では聖火は台風の影響で1日遅れて9月7日正午に那覇に到着。8日に那覇市を出発。南部の糸満市などを回って東海岸を北上、名護市嘉陽地区の聖火台まで。9日から西海岸を南下。11日午後、最終地点の那覇空港に到着した。

20年東京大会では、聖火は福島県のJヴィレッジを3月26日に出発。沖縄県聖火リレーは5月2~3日までの2日間。2日に那覇市の首里城公園を出発し、名護市内に到着。翌3日の平和祈念公園まで、2日間で県内14市町村を回る。前回東京大会と違い、宮古島や石垣島、座間味島など離島にも初めて聖火が運ばれる。離島などには、聖火から火を分けて事前に輸送した「子の火」を使用する。沖縄都市モノレール(ゆいレール)や沖縄に伝わる小型漁船「サバニ」での聖火リレーも予定している。

<64年2日目第1走者・宮里操さん>

名護市嘉陽地区を出発する64年東京五輪沖縄県聖火リレー2日目第1走者の宮里操さん。当時は珍しかった巨大ケーキが用意された(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)
名護市嘉陽地区を出発する64年東京五輪沖縄県聖火リレー2日目第1走者の宮里操さん。当時は珍しかった巨大ケーキが用意された(沖縄県名護市久志支部体育協会提供)

64年東京五輪沖縄県聖火リレー2日目の第1走者を務めたのが沖縄県名護市の宮里操さん(77)。沖縄県名護市嘉陽地区(旧久志村)の聖火台から1・2キロ走った。中学、高校と陸上部に所属。当時22歳。地元・久志体育協会陸上部長を務めていた。

大勢の人がスタート地点に駆け付けていた。屋根に上って、一目見ようとする人も続出した。「日の丸が想像できないくらいの数ですごかった。感動しました」。さらに「ずっと坂道の難コースなので、子供たちがついてこないか心配でした。無事に完走したいとの一心だったので、走り終えた瞬間、ホッとしました」と振り返った。

64年東京五輪聖火リレーで、沖縄県2日目の第1走者だった宮里操さん。出発した名護市の聖火台の前で(撮影・近藤由美子)
64年東京五輪聖火リレーで、沖縄県2日目の第1走者だった宮里操さん。出発した名護市の聖火台の前で(撮影・近藤由美子)

今回の東京五輪聖火リレーは、名護市では沖縄県初日の5月2日に行われる予定。「生きている間に五輪が2回あることはすごいことですが、地元に聖火が来ることが一番うれしい」。今も週の大半は5、6キロのマラソンを日課としている。今回、再び聖火ランナーに応募したが、選に漏れた。「若い人に任せて、応援します。仲間たちと昔のように竹と紙で日の丸を作って、応援に行こうかと思ってます」と話した。