サッカー日本男子がオリンピック(五輪)で3位以内の成績を挙げたのは、銅メダルを獲得した1968年メキシコ大会しかない。エースだった釜本邦茂(76)は7ゴールで大会得点王に輝くなど、日本史上最高のストライカーと呼ばれた。点を取ることに命を懸けた男の言葉に、後輩たちへのヒントはないのか。1年延期が決まった東京五輪を含めて、熱い胸の内を語った。(敬称略)【取材・構成=横田和幸】
■日本初メダルから52年
アジア、日本にとって初の表彰台となったメキシコ大会から52年。日本サッカー殿堂入りも果たした釜本は、4月で76歳になった。それでも「あの記憶は忘れることはない」という。
68年10月24日、3位決定戦で日本がメキシコを2-0で破って銅メダルを獲得。選手村に戻ると先輩たちは、精根尽き果ててベッドに倒れ込んだという。釜本は当時24歳だった。
「僕は先輩の目を気にして、宿舎では寝てるふりをした。だって試合は攻められっぱなしだから、FWは疲れてないもん。後ろの選手は(守備で)しんどかったでしょう。僕は前線で見てるだけやったからね」
前半20、40分に、釜本がいずれも杉山のパスから左右の足でゴールを挙げたが、それ以外は得点機会なし。後半はメキシコが決定機を外し続け、地元観客はスペイン語で「ハポン(日本、頑張れ)」と逆に声援を送ってくれた。2度の好機をものにした日本が、格上の開催国を撃破した。
釜本らはベスト8に終わった前回64年東京大会以降、堅守速攻に磨きをかけてきた。得点だけに専念した釜本と、釜本へのパスだけを狙っていた左サイドの杉山と、ひたすら守った残り9人。指揮官長沼の使命をまっとうし、銅メダルにつなげた。
「東京五輪から(作戦は)ずーっと一緒だもん。杉山さんと、とにかく2人で攻めていく。得点パターンが決まってたからね。日本のやり方を徹底してやっただけやわ」
2点目は杉山のパスに、釜本が1タッチし、右足を振り抜いてDFの股を抜いた。映像で見直しても、一般には分かりづらい高度な技だ。釜本は興奮を思い起こしながら説明した。
「あの時、敵のセンターバックが正面にいて、シュートできる位置じゃなかった。ちょっとボールが(自分の)内側に入りすぎてたから、1個分、外に出したと同時にノンステップで蹴った。相手の構えた股を通ったんや。どーん。あのシュートは会心やった」
ナイジェリアとの1次リーグ初戦でいきなりハットトリック。フランスとの準々決勝、メキシコとの3位決定戦で2点ずつ奪った。大会得点王に輝く7ゴールは全6試合中、3試合で荒稼ぎした。
「メダル獲得は最後まで分からなかったよ。だけどその場にいけば、勝って帰りたいに決まってるじゃん。自分自身のプレーは、ナイジェリアの1点目でやれると思った。3試合で7点か…固め打ちやな(苦笑い)」
大会直後に予定された世界選抜メンバーとして、ブラジルとの親善試合出場を打診されたが、あっさり断った。
「早く帰りたかったもん。帰国後、皇居で祝賀会があってメダリストが集まった。天皇陛下と皇后陛下が『よく頑張られましたね』『お座布団が飛んでいましたね』と、おっしゃっていた。メキシコに勝った瞬間、場内は座布団が飛び交っていたからね。今でも鮮明に覚えていますよ」
■森保監督、応援してます
今夏の東京五輪は、新型コロナウイルスの影響で史上初の1年延期になった。サッカー男子は基本23歳以下で編成するが、延期によって来年は24歳以下で臨む特例措置が示された。
「世界中が同じ条件とはいえ、日本にとっては、チームを作り直さなくていいからよかったんじゃない? 現在は練習やテストができないから厳しいが、9月ぐらいで問題が収束してくれれば、年内をメドに選手をテストし、来年には固定させられればいいけどね」
メキシコ五輪以来、28年ぶりの本大会出場となった96年アトランタ大会は、釜本の早大や日本代表の後輩にあたる西野朗が指揮。来年の東京大会は、西野が指揮した18年ワールドカップ(W杯)ロシア大会でコーチだった森保一が指揮する。個人的にも親近感があるという。
「森保という人は知っているつもり。選手選考とか、いろいろ問題はあるだろうし大変だわな。しかも(A代表と)掛け持ち。W杯アジア予選の延期が続いており、来年はもっときついかもしれない。でも、非常に粘り強い監督。やれんことはない。僕は日本人監督がいいと言ってる方ですから、応援してますよ」
一方で選手、特に同じFWへは厳しい言葉が並ぶ。1月のU-23アジア選手権で日本は史上初めて1次リーグで敗退した。1分け2敗で最下位、総得点は3という惨敗だった。
「東京五輪は大変ですよ。まず一番の問題は点が取れない。サッカーは点取らないと勝てないからね。彼らには果敢に挑戦するプレーが1つもない。敵が来てFWがパスしているようでは、まったく話にならんわな。監督に認めてもらわな、あかんわけでしょ。人にボール渡したら終わり。だから、ここ(心)が強くならないとだめでしょ」
釜本はゴールに命を懸けてきた。日本代表通算75得点は歴代1位。特にゴール前右45度からのシュートには絶対的な自信を持つ。伝説を築いてきたからこそ本人は誤解を恐れずに言う。
「FWとはスペシャリストのポジション。学生時代から、お前が点を取れとだけ言われてきた。1点入れても、2点取られたら(守備の選手に)もっとしっかり守れとなるわね」
そう言って右拳を心臓にあて、釜本の熱量はさらに上がっていく。
「昔は釜本を止めたら評価が上がるから、相手は蹴飛ばしにくる。逃げてたら点取れないでしょ、ゴールにいかなきゃ。途中におるやつは排除しないと。自分はゴールへ一直線でいくタイプ。そういう気概を持って、やっているかどうかの問題ですよ。僕ら吐くぐらいまで練習をした。大相撲の稽古を見にいったら、ぜーぜー言いながらやっとるじゃん。倒れるまで練習したのが、僕らメキシコ五輪のメンバーですよ」
ゴールだけを見てきた釜本の愚直さは、戦術がどれだけ変化、進化しようとも、どの時代にも共通して求められているものだろう。後輩を奮い立たせる一助になるならと、釜本は今後も提言を続けていく。
◆釜本邦茂(かまもと・くにしげ)1944年(昭19)4月15日、京都市生まれ。山城高から早大に進学、2年時に東京五輪に出場。日本代表通算75得点(76試合)は歴代1位。ヤンマーでは7度の日本リーグ得点王と4度のリーグ優勝、通算251試合202得点で84年に現役引退。G大阪初代監督を務め、日本協会でも副会長などを務めた。180センチ、75キロ。95年から参院議員を1期務めた。05年日本サッカー殿堂入り。
◆メキシコ五輪VTR 前回東京大会8強の日本は、18人中14人が同じメンバー。第1戦ナイジェリア戦で釜本の3得点で快勝すると、ブラジルとの第2戦は釜本の同点アシストで値千金の引き分け。スペインとの第3戦は狙い通りの引き分けで1次リーグは2位通過。準々決勝フランス戦も釜本の2点などで快勝。準決勝は優勝したハンガリーに大敗。3位決定戦ではメキシコにまたも釜本の2得点で番狂わせの銅メダルを獲得。
◆五輪サッカー競技 男子は1900年パリ大会から始まり出場資格はアマチュアのみ。84年ロサンゼルスからプロの出場が可能に。92年バルセロナからW杯と区別するために23歳以下に。96年アトランタから24歳以上が3人まで出場できる年齢制限外枠を設定。アトランタから始まった女子に年齢制限はない。
<取材後記>
新型コロナウイルスの影響で、釜本さんもライフワークであるサッカー教室の自粛が続く。最近は大阪府内の自宅付近を約1時間散歩するのが日課だという。「運動不足や」と嘆きながらも、サッカーへの情熱は何も変わっていない。取材の際、五輪での自身の得点場面を説明するため、足元にあった箱をボールに見立てて解説してくれた。厳しい提言の中にも常に愛情がある。
現役時代にドイツ人コーチのクラマーさんから強く教わったのは「大和魂」だという。釜本さんら全員がアマチュアの立場だったが、プロの意識で競技に向き合うことだったという。ラグビーW杯の日本代表に選ばれた外国籍選手が昨秋、君が代を斉唱する姿に「あそこにも大和魂がある」と感銘。1本のシュートにも魂を宿らせた釜本さんの座右の銘は「一蹴入魂」。重みのある言葉だった。