東京パラリンピック開幕まで1年を切り、パラスポーツ界も新型コロナウイルス禍の中で動き始めた。5、6日には世界パラ陸連(WPA)公認の日本パラ陸上選手権(埼玉・熊谷スポーツ文化公園陸上競技場)が開催される。男子走り高跳び(義足T64)で東京大会代表内定の鈴木徹(40=SMBC日興証券)は、延期期間を利用して跳躍の改良に着手し、その感触を確かめるためにエントリーした。日本初の義足陸上選手にして世界でただ1人の義足2メートルジャンパーに、パラリンピック6大会連続出場の東京大会で悲願のメダル獲得にかける思いを聞いた。【取材・構成=小堀泰男】

取材に応じるパラ陸上競技高跳びの鈴木(撮影・山崎安昭)
取材に応じるパラ陸上競技高跳びの鈴木(撮影・山崎安昭)

6月末跳躍再開

鈴木はコロナ禍の中で静かに、着実に来年へ準備を進めていた。3月末から3週間は完全にトレーニングから離れたが、5月の連休明けから体を動かし、6月末には3カ月ぶりに跳躍練習を再開した。昨年11月の世界選手権で銅メダルを獲得し、その後東京代表に内定。今季初実戦になった先月23日の山梨県選手権を経て日本選手権に参戦する。

「東京大会が延期になっても内定が維持されたことが大きいです。日本選手権はWPA公認ですが、無理に調整して記録を出さなくてもいい。自粛期間から義足の調整や新しい技術に取り組んでいて、この秋のシーズンはそれを試しながら試合を運んでいきたい」

芸術的な背面跳びで自己ベストは2メートル02。現役では世界で1人だけの義足の2メートルジャンパー(※1)はキャリア20年で40歳になった今、何を変えようとしているのか。

「踏み切り直後に体が鉛直(※2)に上がりながらうまく弧を描くように調整しています。健足の左で踏み切り、義足の右を速く、しっかり引き上げる。去年までは踏み切り直後に体がバーの方向に傾いていた。そこを改善したい。新しい跳躍ができればあと5センチは高さを稼げます。この10年間で何回か挑戦してきましたが、形だけで高さにつながることがなかったので」

国内製義足併用

健常者でも容易ではない技術を義足で実現する困難なミッションのために布石も打ってきた。19年間一貫して海外製の同じ義足を愛用してきたが、昨秋から国内製も採用し、世界選手権でも使用している。

「僕の身長(179センチ)や年齢で鉛直に高さを出すには、助走のスピードをよりジャンプに生かさないといけない。パワーより技術ですね。義足の反発やねじれを調整しながら両方を試しつつ、東京ではベストの選択をしたい。助走の最後、踏み切りまでの3歩のリズムもこれまでより速くしてます」

山梨県選手権で180センチをクリアするパラ陸上競技高跳びの鈴木(撮影・山崎安昭)
山梨県選手権で180センチをクリアするパラ陸上競技高跳びの鈴木(撮影・山崎安昭)

山梨・駿台甲府高からハンドボールの推薦枠で筑波大進学が決まっていた。しかし、高校卒業直前の交通事故で右脚を膝下から切断。リハビリの過程で走り高跳びを始めて大学でも陸上部に入部し、00年シドニー大会代表に選出された。以来16年リオまで5大会連続出場も順位は6、6、5、4、4位とメダルに手が届いていない。

「シドニーで義足の選手は古城君(※3)と僕の2人だけで日本では初めてでした。車いすや視覚障がいの選手のサポートやガイド役も僕たちの役割だった。自分の調整に専念することも難しかったです。それが今ではたくさん義足の選手が活躍するようになり、本当にうれしく思います。これまでメダルが取れなかったこともありますが、自分が(代表から)脱落しないようにと思って頑張ってきた。東京大会で僕が戦うのは、みんな足のある機能障がいの選手だと思う(※4)。そういう点で意地もありますから、ぜひメダルを取りたい」

助走のシーズン

自己ベストを超えて2メートル05をクリアできれば表彰台が見えてくる。新たな跳躍をつくり上げて悲願のメダルへ。日本の義足陸上界のパイオニアにしてレジェンドの鈴木が、東京大会への助走のシーズンを迎える。

※1=義足で世界初の2メートルジャンパーはジェフ・スキバ(米国)で、2メートル08の記録を持って臨んだ04年アテネ大会で銀、08年北京大会では2メートル11で金メダル。鈴木は06年に初めて2メートル00を跳んで2人目になり2メートルジャンプは計5回。16年リオ大会後にスキバが引退して世界で1人になった

※2=えんちょく。重りを糸でつるした時、糸が示す上下方向を鉛直方向といい、基準面が地面(水平面)の場合は垂直方向と一致する

※3=古城暁博。沖縄県宮古島生まれ。5歳の時に交通事故で右脚切断。小学生から義足でサッカーを続けたが高校生の時に陸上を始め、高3の17歳でシドニー大会100メートル8位。その後はつえをついてプレーするアンプティサッカーに転じ日本代表

※4=鈴木の片下腿義足T64クラスは競技人口も実力者も限られるため、片足関節機能障がいなどのT44クラスと統合されて争われる。出場者は10人ほどで、鈴木以外はT44の選手になることが濃厚


■交通事故で壊死、切断

運転免許を取得して1カ月後だった。駿台甲府高3年生の鈴木は99年2月下旬、山梨県内の甲州街道で乗用車を運転中に居眠りをし、ガードレールに突っ込んだ。右脚を複雑骨折。患部が壊死(えし)を起こして1週間後に膝下11センチから切断した。手術は3月2日。級友たちが卒業証書を受け取った翌日だった。「その時考えたのは『スポーツができない』ではなく、『どんなスポーツができるか』でした」。

鈴木は5歳の時、脈拍が30ほどに低下する徐脈性不整脈という病気にかかるなど体が弱かった。同じころ、1歳の妹が目の前で川遊び中に溺れそうになった。助けを求めようとしたが声が出せず、そのショックから吃音(きつおん)症になった。小学校ではいじめの対象にもなったという。

言葉で自分を表現できなければ体を動かすしかない。野球からバスケットボールへと、病気の回復とともにスポーツに熱中することで自信も深まり、吃音も克服。中学でハンドボールを始めると、高校では国体3位、日本代表として五輪出場を目指していた。筑波大でも義足でプレーするつもりだったが思うに任せず、リハビリで出会った走り高跳びを始めた。

初練習で1メートル65を跳び、当時の日本記録を上回った。初の大会で1メートル74を跳び、シドニー・パラリンピック標準記録を上回った。以来20年間、世界の第一線で跳び続けてきた。「バスケットからハンド、そして高跳びと、ジャンプは僕にとってとても大事なもの。東京の後も何歳まで2メートルを跳べるか挑戦を続けたい」。鈴木は軽やかに宙に舞い、バーを越えることでその存在を証明し続ける。


鈴木徹の主な大会成績
鈴木徹の主な大会成績

◆鈴木徹(すずき・とおる)1980年(昭55)5月4日、山梨県山梨市生まれ。同市立岩手小-同山梨北中-駿台甲府高-筑波大・同大学院。06年に2メートル00を跳び、世界で2人目の義足の2メートルジャンパーに。その後は故障もあって記録が伸びなかったが、15年に2メートル00、2メートル01を連発。16年には自己ベストの2メートル02をマークした。パラリンピック5大会連続出場で08年北京大会で日本選手団旗手。世界選手権では17年に2メートル01、19年に1メートル92で銅メダル獲得。SMBC日興証券所属。179センチ、63キロ。夫人と2男。山梨市在住。