延期となった東京オリンピック(五輪)に向けたマラソン・グランドチャンピオンシップ(MGC)から約1年がたった。権利を得た選手のみが出場でき、基本的に、五輪代表を1つのレースで選考するという初の大会。その仕組みをゼロから考えた日本陸連の河野匡・長距離マラソンディレクター(60)に、分析や課題について聞いた。4年後のパリ五輪へ向けても、MGCの基本的な形を維持することを目指している。日本陸連の尾県貢専務理事(61)はバージョンアップを目指す「新MGC」の構想も明かした。

■男子 2時間10分を切る選手が少ないワケ

男子に関して、河野ディレクターはMGCの1つの“功績”を強調する。

「駅伝で終わらない(=燃え尽きる)、駅伝の弊害が以前はいわれていたが、マラソンにつながる動機づけ、道しるべを作れた」

日本陸連の河野匡・長距離マラソンディレクター
日本陸連の河野匡・長距離マラソンディレクター

以前からハーフマラソンで「1時間3分を切る」選手の数は、世界各国と比較しても圧倒的に多かった。理由は1区間が20キロ前後ある箱根駅伝があるからだとされている。こういった下地はあるのに、マラソンで「2時間10分を切る」選手は少なかった。その一因こそが、五輪の選考の仕組みだった。

リオデジャネイロ五輪までは約8カ月前から始まる選考会で結果を出せば、代表になれた。極端にいえば、そのシーズン以外は、マラソンで結果を出す必要がない。ならば駅伝やトラックの練習を重点的に行うのは、当然でもあった。

MGCは、その取り組みを変える制度であった。まずMGCに出るため、17年8月~19年4月の期間に指定の条件をクリアする必要があったからだ。早期のマラソン挑戦を迫り、それは選手の若返りをもたらしたという。

設楽、大迫が日本記録を更新したように、記録の向上が印象的だが、年齢で見ても、興味深いデータが浮き彫りとなる。MGC出場権を獲得した34人の中で、レース当日に26歳以下だったのは五輪代表の中村、服部を含む13人だった。

男子マラソンの最高記録と年齢の比較
男子マラソンの最高記録と年齢の比較

4年前はどうか-。同じタイミングで、15年9月15日にMGCがあったと仮定して、今回と同じ出場条件を当てはめてみる。すると全体では16人で、26歳以下に限ると、小林の1人しかいない。「地元五輪に出たいという機運が高まっていた。2時間11分を最低限として、練習から本気でマラソンにチャレンジする数が増えた」。もちろん性能の高いシューズが出てきた効果もあるが、何より指導者、選手の意識がマラソンへ強く向いたのが大きかった。その意味で、MGCは有意義な価値あるものだったといっていいはずだ。【上田悠太】


■女子 あまりにも短い現役期間

MGCを通じて浮き彫りとなった現状に、男女間の「層の厚さ」の違いがある。出場権を獲得した男子は34人だった一方、女子は半数以下の15人にとどまった。その要因について河野ディレクターは、マラソンに進む女子競技者の数がそもそも少ないと指摘。「ハーフマラソンに参加する競技者の数を見ても、女子は男子の4分の1程度にとどまる」と話す。

背景にあるのが、社会人女子長距離ランナーの競技継続期間だ。河野ディレクターが指導者との情報交換を重ねるなかで、実業団に進んだ女子選手は、入部から平均3年ほどで競技を離れるとの統計もあったという。

19年9月、MGC女子で優勝した前田穂南
19年9月、MGC女子で優勝した前田穂南

マラソンは下地作りに3年必要といわれていることも考慮すれば、現役期間があまりに短い。「ホルモンバランスが整うとされる25歳ごろからマラソンの本格的なトレーニングを積んでも遅くない。けれど、実業団というか、日本全体の文化的背景や社会の仕組みもあって、女子選手が長く競技を続けられる環境が、まだ整っていない」。東京五輪出場を目指し、38歳になった今年も大会に出場した福士加代子(ワコール)はあくまで例外的な存在だ。

状況を変えることは簡単ではない。それでも、都道府県対抗女子駅伝で多くの区間賞を樹立したダイハツの山中美和子監督(19年10月就任)、1万メートルで五輪2大会に出場したキヤノンAC九州の川上優子監督(同年1月就任)ら女性指導者が増えつつあることは、変化が生まれる兆候かもしれない。同性だからこそ選手とコミュニケーションを取りやすく、心身の相談に対する深い理解力も期待できる。「日ごろから彼女らにエールを送っている」と河野ディレクター。女性による指導分野へのさらなる進出が“格差是正”を促すか。【奥岡幹浩】


■新MGC構想 マラソンを活性化させる

日本陸連の尾形貢専務理事
日本陸連の尾形貢専務理事

一連のMGCによる選考は、パリ五輪に向けても、大枠を踏襲する検討を進めている。日本陸連の尾県専務理事は「MGCの要素は確実に残したい。多少の変更はあると思うが、考え方としては継承すべき」と話す。指導者ら関係者から意見を聞くと「残して欲しい」という声が大半だという。

「新MGC」の具体的な部分は今後、協議を進めていく。その形を決める上で、描くビジョンがある。

「次は日本中の多くのマラソンを活性化させる要素も盛り込まないといけない。陸連公認あるいは、それに近いレースを活性化させるには、どのような形がいいのかということ」

日本陸連は全国のロードレースを統括、支援するプロジェクト「ランリンク」を行っている。ランニング人口を20年後までに、現在の倍以上の2000万人に拡大することを目指す。「全国のマラソンが(MGCに)何らかの関わりがある。ランリンクからの情報を大切にし、大きな枠組みで考えるべき」と強調した。

世界は著しく高速化が進む。そこに対抗できる選手のみが勝ち抜ける選考を作ることも重要。それは結果として、強化の指針となり、選手の成長を促す。「海外のレースに出て、戦うことも大切なので、その要素も盛り込めたら」と言い「なかなか欲張りな構想ですけど、どう入れていくか考えている状況です」と笑う。

MGCの発表後、日本記録は3度も塗り替えられた。他にも好記録が続出した。「普及、育成のサイクルを動かす全体のエンジンが、トップアスリートの活躍。そのサイクルを回すことで、陸上界全体がさらに高い階段を上っていく」。リオ五輪の惨敗がなければ、「絶対になかった」という変革。それはトップ層だけでなく、マラソンの未来を明るくしていく。

◆東京五輪マラソン代表選考方法 昨年9月15日に1発勝負のMGCで男女各2人を選んだ。これに出場するためには、17年8月から19年4月までのMGCシリーズで、日本陸連が定めた条件を満たす必要があった。ワイルドカード枠に加え、世界選手権8位、アジア大会3位以上の選手にも出場権が与えられた。MGC優勝と2位が五輪代表に内定。残る1枠はファイナルチャレンジ(男女とも指定3レース)で派遣設定記録を突破した選手に決めた。いない場合はMGC3位が代表になるルールだった。