JPC河合委員長がパラでつくりたい共生社会とは

パラリンピックについて思いを語る日本パラリンピック委員会の河合純一委員長(撮影・たえ見朱実)

パラ水泳の視覚障害クラスで金5個を含む日本最多21個のメダルを獲得した河合純一氏(44)が、1月1日付で日本パラリンピック委員会(JPC)の委員長に就任した。元選手が99年発足のJPCのトップになるのは初めて。東京大会では日本選手団の団長も務める。パラリンピックイヤーに重責を託された新たなリーダーに、パイオニアとしての歩み、大会への期待、目指す共生社会像について聞いた。

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東京パラリンピックの成功は共生社会実現への契機になると期待されている。しかし「共生社会」を具体的にイメージできる人は少ない。河合氏はどんな社会を描いているのだろうか。

河合 食べ物で言えばミックスジュースではなくフルーツポンチです。個性をすりつぶして、混ざるのではなくて、色合いや味わいなどを生かしつつ混ざり合う。絵で言えばモザイク画の切り絵のように、それぞれの色や輝きを生かして美を調和させる。個性はしっかり残して、主張すべきは主張して、生かし合える社会。そのためにはまず相手を知らなければならないので、自然とコミュニケーションが生まれます。

つまり障がいも含めた多様な個性を、みんなが認め、生かし合う社会。しかし、人々の根強い偏見や差別意識を取り払うのは簡単ではない。その難しい作業を加速させる力が、パラリンピックにあるといわれる。

河合 選手の想像を超えたパフォーマンスは人々が自分自身の可能性に気づくきっかけにもなるし、心のバリアーを取り除く力も持っていると感じています。パラリンピック成功の要因はフルスタジアムとベストパフォーマンス。実現できればメディアが大きく取り上げて、見る人が増え、パラスポーツを理解する人も増えるはずです。

有言実行の男である。パラリンピックで獲得したメダルは金5個を含む21個。パイオニアとして道を切り開いてきた。そんな栄光の人生を意外にも「失敗だらけ」と振り返る。

河合 金メダルの5回以外は負けているんです。最初に出場した92年バルセロナ大会は銀2個と銅3個。表彰式では1位の国歌が流れて、1~3位の国旗が掲揚されますが、国旗が見えない私には、1位の国歌を聴き続けるだけの儀式なんです。悔しかった。その思いが以降の金メダルにつながりました。日本選手団の主将として臨み、リレーで世界新記録を樹立して金メダルを取った00年シドニー大会は特に印象に残っています。

世界のトップ選手として、パラリンピックに6大会連続出場。アスリート初の委員長として、その豊富な経験にも期待が高い。

河合 アスリートの声を聞く機会をつくりたいし、自分の経験も伝えていきたい。先日、パラ水泳の育成選手たちに今年の目標を書かせて話をしました。「こうなりたい」ではだめだと。「こうなる」と書くと意志が全然違ってくる。そのために今日何をするかを考えるようになります。彼らが続けてくれればいいのですが、教育はそんな簡単なものじゃない。だいたい忘れてしまいます(笑い)。

単なる元アスリートではない。教育者の顔もある。シドニー大会当時の職業は「中学校教諭」。98年に社会科の教師として母校の静岡・舞阪中に赴任。日本初の全盲教師として話題になった。

河合 小4の時、担任の先生が水泳部の顧問もしていて、僕も先生になりたいと思いました。先生になってからは生徒の自己紹介を録音して声を覚えました。自分が生徒だった時、どんな先生を信頼するのかという基準は、自分のことを覚えてくれて、分かってくれる先生だと思っていました。そんな教員を目指していたので、声を覚えるのは大変だとは思わなくて、仕事として最低条件でした。

20代の若さで、しかも全盲の教師として、思春期の生徒たちと向き合う。それこそ想像を超えたパフォーマンスだが、本人は笑ってふり返る。

河合 教育は今日、明日で子どもの人格を変える作業ではないわけです。毎日のように「昨日も言ったよな」が繰り返される。でも、5年、10年先に「あの時、先生が言っていたことは意味があったなあ」と思ってくれれば、教育者としてよかったと思う。そんなクギを打つような作業でいいと思っています。

東京パラリンピックの成功に全力を注ぐ一方、共生社会実現については長い目で見ている。

河合 スポーツをやりたい障がい者を、すぐに受け入れる環境が整うかはまだ疑問です。私もすぐに社会が変わるとは思っていません。学校教育でパラリンピックを学び、両親と一緒に会場で観戦した子どもたちが、10年後、社会を動かす側に立ち、大きな力になってくれたときに、変わっていればいいなと思っています。どこにでも差別や偏見があります。人間とはそういうものかもしれません。でもそれを学びや教育を通じて乗り越えられるのも人間だと思っています。可能性を信じたいですね。

◆河合純一(かわい・じゅんいち)1975年(昭50)4月19日、静岡県生まれ。5歳で水泳を始め、15歳の時に視力を完全に失う。パラリンピックは92年バルセロナ大会から12年ロンドン大会まで6大会出場。自由形、背泳ぎ、バタフライ、個人メドレー、メドレーリレーの5種目で、金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得。98年早大教育学部卒業。母校の静岡県舞阪町(現浜松市)の舞阪中で8年間、社会科の教師を務める。05年早大大学院教育学研究科修了。日本障がい者水泳連盟会長。16年に日本人で初めてパラリンピック殿堂入り。家族は妻と1男1女。