【五輪あと3日】谷亮子さんがジェンダー平等掲げる大会への思い「124年を経て男女同数に」

嘉納治五郎さんの肖像画の脇で笑顔を見せる谷亮子さん(撮影・河田真司)

<パリで金 やっパリ金>

パリ五輪は史上初めて選手数が男女同数となる。ジェンダー平等を掲げるパリ五輪。日刊スポーツ特別コメンテーターを務める谷亮子さん(48)は、結婚、出産後も現役を続け、日本勢史上最多となる5大会連続で五輪メダルを獲得した。「パリで金、やっパリ金」と題して、自身の経験から今の思いを語った。

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2024年の夏!大好きな国、フランスの首都パリで、オリンピック(五輪)とパラリンピックが開催されます。

ジェンダー平等が掲げられているパリ大会では、五輪の出場選手の数が史上初めて、男女同数になります。

1896年、第1回アテネ大会では、男性のみの参加で、女性には門戸が開かれていませんでした。

女性が初めて五輪に参加できるようになったのは、1900年の第2回パリ大会からです。世界24カ国から997人が参加しましたが、女性は22人。全体のわずか2・2%でした。

以来、124年の時を経て、初めて女子選手が参加した1900年大会と同じパリで、男女の参加人数が同数となる五輪が実現するのです。とても意義深い大会になります。

出身の柔道の女子競技が五輪に採用されたのは1992年バルセロナ大会からですが、実は女子への門戸が開かれるのはとても早かったのです。講道館柔道の創始者である嘉納治五郎先生は柔道創設の11年後の1893年に、いち早く女性の門下生を受け入れています。男女平等や男女同数についても当時からイメージされていた。のちに嘉納先生は「女子柔道は、講道館柔道の真の姿の継承である」として「体力的に優れた男性による力技の柔道よりも体力のない女性の柔軟さの中にこそ真の柔道が受け継がれる」とお説きになります。

私は小学校2年生の7歳で柔道に出会いました。4歳上の兄が柔道を習い始めていたので、母について道場に行く。当時は100人を超える生徒がいる中、女子はわずか3人。当時から出場する大会は、ほとんどが男女混合の無差別級です。120センチも身長がない頃から175センチ、95キロくらいの大人のような男の子と試合をしてきました。「柔よく剛を制す」の柔道の醍醐味(だいごみ)を小さい頃から実践。男性だから女性だからという意識は持ちませんでした。

師事している道場の稲田明先生は女子柔道もすぐに五輪競技になるからと、道場の生徒全員に「将来はオリンピックに出場できるような選手にならんといかん」と常に話されていた。だから五輪は男女問わず誰もが夢を見て、参加できる世界の大会とのイメージを持っていたのです。

最初に記憶のある五輪は9歳のときの84年ロサンゼルス大会です。開会式でのトランペットのファンファーレやロケットマンの登場は、強烈なインパクトを受けました。柔道は男子の8階級が行われ、日本は4階級で金メダルを獲得。世界の選手の活躍を応援しながら、あの舞台で自分が試合をする姿を思い浮かべていました。

4年後の88年ソウル大会で女子柔道が公開競技として実施されました。そして92年にバルセロナ大会で正式種目として採用されることが決定します。13歳の時でしたが、ここから私の心の中にある五輪の扉が開かれました。14歳で全日本入りし、15歳で国際大会初優勝。正式競技になった時期であり、世界の女子柔道が飛躍的に発展を遂げます。

以来、周囲の支えもあり、結婚、出産後も現役を続けて五輪は5大会連続のメダルを獲得することができました。今回のパリ大会では選手村に、私の念願でもあった育児室が初めて設置されます。子育てと競技を両立するママアスリートも増えてきました。親子で時間を過ごせるスペースが確保されることは画期的で大きな進歩だと思います。

パリの街を動脈のように流れるセーヌ川での開会式では、約160隻の船に乗船した男女同数の選手が入場行進します。1人1人が輝きを放ち、未来を築くパリ大会となるでしょう。(日刊スポーツ特別コメンテーター・谷亮子)

◆谷亮子(たに・りょうこ)1975年(昭50)9月6日、福岡県生まれ。小学2年で柔道を始め、福岡工大付から帝京大、日体大大学院、トヨタ自動車で活躍。15歳の時、福岡国際女子柔道で最年少優勝。五輪は5大会に出場し、金2、銀2、銅1を獲得。世界選手権は6連覇を含む7度、全日本選抜体重別は11連覇を含む14度の優勝など、数々の記録を持つ。10年に現役を引退。参院議員や全日本柔道連盟理事を務め、現在は日本プロ野球OBクラブ理事。03年12月に結婚した谷佳知氏との間に大学1年の長男と中学3年の次男。愛犬2匹。