日本が過去の五輪で獲得したメダルは夏冬合わせて575個、うち最多210個が銅メダルだが、第1号が100年前のパリ大会だったことは意外に知られていない。レスリング男子フリースタイル61キロ級で歴史的なメダルを獲得したのは内藤克俊。その後、偉業を隠して表舞台から姿を消し「幻のメダリスト」となった。その生涯を発掘した日刊スポーツ記者の存在とともに、激動の「100年」を振り返る。
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内藤氏がメダルを手にしたのは、1924年(大13)の7月14日だった。パリに向かう途中、船上での練習中に負傷しながらも、敗者復活戦から3位決定戦に回って勝利。八田一郎が日本レスリング協会を創設する8年も前、日本の「レスリング史」が始まる以前の快挙が「幻のメダリスト」を生んだ。
広島で生まれた同氏は幼少期に両親を亡くし、長姉を頼って海を渡った台湾で柔道をはじめた。柔道で活躍しながらも、夢は開拓者。台北一中から鹿児島高等農林学校に進み、米ペンシルベニア州立大の農学部に留学。ここで「柔道に似ている」レスリングに出会った。
レスリング部に入部すると、柔道仕込みの格闘センスですぐに頭角を現した。学生内での人望も厚く、排日運動が激しい時代にキャプテンに就任。「タイガー・ナイトー」の愛称で親しまれ、全米王者にもなった。卒業直後のパリ五輪に大学側の推薦もあり、日米関係の緊張を緩和させる政治的な配慮もあって出場。陸上や競泳の日本選手団とは別に、米国選手団とともにパリに向かった。
まだ、日本に「レスリング」がなく、柔道の亜流として「裸柔道」「西欧相撲」と呼ばれたていた時代だった。銅メダリストの帰国を講道館は歓迎したが、競技を定着させるまでには至らなかった。半年後、内藤氏は日本を離れて幼少期を過ごした台湾に渡り、4年後には33歳で家族とともに念願の農地開拓のためにブラジルへ移住。表舞台から姿を消した。
移民のリーダーとして働くとともに、柔道家として奮闘した。私財をはたいて道場を作り、メリケン粉の麻袋を道着にして移民だけでなくブラジル人にも柔道の魅力を伝えた。銅メダルや米留学のことは隠し、家族にさえ他言を禁じた。五輪の栄光を忘れて、農業と柔道に粉骨砕身。開拓者としての偉業は、サンパウロ郊外スザノ市の大通りの名に「NAITO」として残る。
消えた「幻のメダリスト」を発掘したのが、当時日刊スポーツ運動部にいた宮沢正幸記者だった。過去の文献から存在を知って取材を始めたが、関係者でさえ「戦死したのでは」という始末。しかし、諦めずに取材を続け、消息が分かるとブラジル、米国、台湾へと足跡を求めて足を運んだ。日本レスリング協会に働きかけ、64年東京五輪に本人を招待し、世話係も買って出たという。
69年5月に講道館から7段が贈られた内藤氏は同年9月に74歳で亡くなったが、その後も取材は続いた。85年に55歳で日刊スポーツを退社した後も、日本レスリング協会や母校拓大の仕事をこなしながら記者として「幻のメダリスト」の生涯を追い続けた。今知られる内藤氏の逸話の数々には、宮沢記者が発掘し、世に伝えたものが数多い。
「彼は素晴らしい人物。多くの人に知ってほしい」と「ライフワーク」にした理由を口にしていた。一昨年初めに会った時は「次はパリだし、今後は内藤さん研究に専念します」と衰えない取材意欲をみせていた。「これ以上書くことありますか」と少し意地悪に聞くと「まだまだありますよ。一冊の本にしないといけないと思っているんです」と出版にも意欲的だった。
あれから1年後の今年2月28日、宮沢記者は94歳で亡くなった。「生涯一記者」として取材を続けた尊敬すべき先輩記者は「内藤さんの銅メダルから100年後のパリオリンピックには行きたい」と話し、フランス語も勉強していたというが、その願いはかなわなかった。
16年リオデジャネイロ五輪後、サンパウロ市内に「幻のメダリスト」の四男ラグスさんを訪ねた。「家は貧乏だったけれど、移民のため、スポーツのために休まず働いた。そんな父が誇りです」と笑い、続けて「父を日本に紹介してくれた宮沢さんにも感謝しています」と話してくれた。歴史をつくった偉人と、功績を掘り起こし、多くの人に伝えた記者。そのスタートが、ちょうど100年前だった。【荻島弘一】
◆内藤克俊(ないとう・かつとし)1895年(明28)2月25日、広島市生まれ。10歳の時に渡った台湾で柔道をはじめ、台北一中から鹿児島高等農林学校を経て、米ペンシルベニア州立大に留学。レスリングで全米王者になり、同大学卒業直後の24年パリ五輪フリースタイル61キロ級で銅メダルを獲得。ブラジル移住後は苦労の連続だったが、転居したサンパウロ州スザノでは産業組合理事長として活躍。無償での柔道指導も63歳まで続けた。69年に講道館から7段が贈られ、その年の9月27日に死去した。
◆日本の五輪メダル 21年の東京大会まで夏季が499個(金169、銀150、銅180)、冬季が76(金17、銀29、銅30)を獲得。メダル第1号は1920年アントワープ大会テニス男子シングルスの熊谷一弥の銀。金メダルは28年アムステルダム大会陸上男子3段跳びの織田幹雄が初。
◆1924年パリ五輪 5月4日から7月28日まで、ラグビー、ポロなど19競技126種目に44か国から3088人が参加。初めて選手村が設置され、後に俳優に転身するワイズミュラー(米国)が競泳で金3個、水球で銅メダルを獲得するなど活躍した。日本は陸上、競泳、テニス、レスリングに19選手が参加。五輪3大会目の金栗四三らマラソン勢が期待されたが、いずれも途中棄権。競泳もメダルに届かず、レスリングで唯一出場した内藤克俊が銅メダルを獲得した。