記録と記憶に残る奇跡の連覇を成し遂げた。ショートプログラム(SP)で首位の羽生結弦(23=ANA)が、フリーで206・17点をマークし、合計317・85点で14年ソチ五輪に続き、金メダルを獲得した。4回転ジャンプを4本跳び、最後のトーループ以外は軽やかに着氷。昨年11月に右足首の靱帯(じんたい)を損傷するアクシデントに見舞われ、違和感を残しながらも、SPに続き圧倒的な演技を披露した。男子の連覇は実に66年ぶりで、日本人として冬季の個人種目での連覇は初の快挙。1924年に開催された第1回シャモニー五輪(フランス)から数え、節目となる冬季五輪1000個目の金メダルとなった。数々の試練を乗り越え、羽生が伝説のスケーターになった。

 羽生は勝利を確信して、人さし指を天に突き上げた。滑り終えて勝てるか不安が頭をよぎった4年前とは違う。氷に向かって「勝ったぁ」と何度も叫んだ。優勝が決まると、たちまち涙があふれた。ケガから3カ月ぶり、ぶっつけ本番でつかんだ66年ぶりの連覇。「漫画の主人公にしては出来すぎ」と劇的な金メダルつかんだ。

 痛みの残る右足首が勝利を支えた。ジャンプを跳び始めたのはわずか3週間前。それでも「4回転サルコーもトーループもアクセルも、トリプルジャンプすべて、何年間もやってきたので覚えていてくれました」。冒頭の4回転サルコー、続く4回転トーループも高く、流れるように成功。終盤の4回転トーループで乱れ、連続ジャンプに出来なかったが、そこまでほぼ完璧だった。

 迎える最後のジャンプは3回転ルッツ。11月のNHK杯でけがにつながったのが4回転ルッツだった。「跳ぶのが一番大変」と転倒時の嫌なイメージがよみがえる。いったん体勢は崩れたが、右足でこらえた。滑り終えると、最後までもってくれた右足首を「右足に感謝したい」と優しくさすった。

 挑戦者だった4年前とは違う。「とらなきゃいけないという使命感があった」。SPで2位フェルナンデスと4・10点差。冒頭の4回転は昨季に決めた4回転ループでも今季初めて決めた4回転ルッツでもなく、得意の4回転サルコーにすると、朝に決めた。「勝たないと意味がない。何より、これからの人生でずっとつきまとう結果なので、大事に大事に結果を取りに行きました」。

 ディック・バトン氏以来66年ぶりの連覇へ。昨夏、同氏にもらい、部屋に飾る手紙には「リラックスして、五輪を楽しめ」と書いてある。4年前と同じ悔いの残る五輪にはしたくないと、勝てる構成を選んだ。

 この金メダルは「いろんなものを犠牲にして、がんばってきたごほうび」と思えた。14年ソチ五輪後、環境は変わった。「金メダリスト羽生結弦」として、窮屈な日々が待っていた。地元仙台でもほぼ外出はしない。友達と遊ぶこともない。外に出る時は大きなマスクで顔の半分を隠した。それは異国の地カナダ・トロントでも同じだった。試合ではトイレの中までボディーガードがついた。空港では混乱を避けるために通常の出入り口を使わない。常に緊張して、どこにいても気を抜けなかった。

 「時々、芸能人とかアイドルみたいな感じになって、違うなあって思うこともある」。無心でいられるのはリンクだけだった。「スケートって場所って自分のつらいこととか、逃げたいことを忘れられることのできる場所でもある。そういった意味ではスケートに頼りっきり。スケートがないと心がつぶれそうなこともある」。

 スケートをただ懸命にやっているだけ。それでも周囲の目は違った。10年世界ジュニア選手権で優勝した直後に東北高校に入学すると、羽生の席は教室前方のドアのそば。休み時間になると同級生、上級生がひっきりなしに教室に訪れた。サインを求められれば、1人1人に快く応じた。ある日、甲子園常連の野球部の上級生から頼まれ、いつものようにサインを書くと、突然バンという大きな音が響いた。背後から「調子にのってんなよ!」。教室のごみ箱に、サインを書いたばかりの国語辞書が捨てられていた。

 美しい見た目の半面、服の下には丸太のような筋肉をまとう。それだけフィギュアは過酷なスポーツだが、そう理解されないこともあった。フィギュアをもっと高めたい。その思いが、体を突き動かした。追われる立場の金メダリストが、昨季、誰も挑戦していない4回転ループに挑戦。さらに今季、自身4種目の4回転となるルッツに挑んだ。王者がハードルを上げれば、挑戦者のレベルも上がる。その競争の先頭を走ってきた。この日「僕が引き上げてきたわけではない」と謙遜した。だが、フリーで羽生を上回った米国のチェンは「偉大なスケーターがこのゲームを変えた」とたたえた。

 初めてスケート靴をはいて、氷に立ったのは4歳の春。助走をつけてリンクに入り、走って数歩で頭から豪快に転んだ。すぐに立ち上がり、何もなかったように再び走った。あれから19年。挑戦を恐れず、けがやアクシデントに襲われても、すぐ立ち上がる。ソチからの4年間はその繰り返し。「ケガばっかりだった」と苦笑いで振り返った。復活はその経験があったから。変わらぬスケートへの愛情で、再び大きな歴史を刻んだ。【高場泉穂】