「エペジーーン最高」キング・オブ・フェンシング“エペ”つかんだ歴史的金

日本対ROC 金メダルを獲得し抱き合って喜ぶ、左から加納、山田、宇山、見延(撮影・鈴木みどり)

<東京オリンピック(五輪):フェンシング>◇30日◇男子エペ団体◇千葉・幕張メッセ

日本フェンシング界が悲願の金メダルを獲得した。山田優(27=自衛隊)見延和靖(34=ネクサス)加納虹輝(23=JAL)と補欠から昇格した宇山賢(29=三菱電機)の日本が開催国枠から勝ち上がり、最後はROC(ロシア・オリンピック委員会)に45-36。男子フルーレで銀メダル2個の太田雄貴(日本協会前会長)でも果たせなかった、全種目を通じて初の頂点だった。日本の五輪選手団にとっては64年東京、04年アテネ両大会の16個を上回る1大会最多17個目の金メダルとなった。

近代五輪125年の歴史に初めて名が刻まれた。競泳、陸上、体操などと1896年の第1回アテネ大会から現存するフェンシング。その金メダルを日本が初めて手にした。のべ142人の男女代表の涙が染み込んだ五輪のピスト(競技コート)上、ついに日の丸が掲げられた。4人が抱き合って喜ぶ姿は、無観客開催下、初の地上波生中継で全国に届けられた。「夢じゃないことを祈ります」と加納。太田らフルーレの銀2個を最高の輝きに塗り替えた。

決勝ROC戦はエース山田が第1ピリオド(P)を取り、加納がリードを広げた。第5Pでは、今大会補欠から昇格して救世主になった宇山が世界ランク2位のビダ相手にフレッシュ(飛び込む突き)などで6連続ポイント。最終Pはアンカー加納のコントルアタック(カウンター攻撃)が突き刺さった。初戦途中で退き、再出場できなくなった見延主将は後輩を鼓舞して45-36に貢献。「エペジーーン最高!」と“エペ陣がジーーンと感動を呼ぶ”願いを込めた造語で喜んだ。

日本が初参加した52年ヘルシンキ大会は、剣や防具の購入や見学も兼ねた出場だった。64年の東京大会は男子フルーレ団体4位、さらに44年後の08年北京五輪で太田が初の銀メダルを取り、ようやく注目された。それまで年間予算700万円しかなく、海外遠征1回で終わりの時代も。協会は全予算を太田らに集中して成果を得た一方、エペの代表合宿は選手1人を自腹でしか呼べない時もあった。

12年ロンドン五輪で太田やウーバーイーツで有名になった三宅諒らフルーレ団体も銀メダルに輝くと、エペにも予算が回り始めた。海外の高名コーチの指導で山田は世界ジュニアを日本人初制覇。19年には今回と同じ4人の団体戦でワールドカップ(W杯)初優勝を遂げた。

「史上最強」。その主将見延はリオ五輪で太田から後継指名された。初戦敗退で引退した太田と選手村が同部屋で「あとは任せた」と。18-19年シーズンに太田もなし得なかった世界ランク年間1位でチームを底上げし「太田先輩が唯一できなかった金メダル獲得が後輩の使命」。それを「最もルールが明快でキング・オブ・フェンシングと呼ばれるエペで達成できたことが大きい」と胸を張った。太田も協会会長として改革で強化費を稼ぎ、会場で後輩に興奮。「早く抜いてほしかった」と大歓迎した。

開催国枠ながら初戦の米国戦を8点ビハインドから制すと、準々決勝では五輪3連覇中かつ世界ランク1位のフランスを撃破。準決勝で韓国をひねり倒した。山田は「日本はフルーレと言われてきたけど僕らは金メダル。エペの時代が来ます」と普及にも期待する。初の金は日本勢にとって1大会最多の17個目。大会後に補助金が減額されることが避けられないマイナー競技が、コロナ禍の五輪に、自国開催に、命を懸けて得た勲章だった。【木下淳】

◆エペ フェンシングの種目の1つ。得点となる範囲「有効面」はフルーレの胴体部、サーブルの上半身に対して足先まで含めた全身と最も広い。攻撃権のルールがあるフルーレ、サーブルと異なり、先に突いた選手がポイントを得る。各種目とも団体戦は延べ9人で3分ずつ戦い、45点を先取するか、試合終了時に合計得点が多いチームが勝利する。五輪にはエペで9チームが出場。日本の世界ランキングは8位。フェンシングは中世の騎士による剣術がルーツとされ、エペは本場欧州での選手層が厚く、人気も高い。

◆日本フェンシングの過去の五輪メダル 08年北京五輪の男子フルーレ個人で太田雄貴が銀メダルを獲得。12年ロンドン五輪では男子フルーレ団体(三宅諒、千田健太、太田雄貴、淡路卓)で銀メダルを獲得した。