五輪の時期になると流れる“マイアミの奇跡”前園真聖が痛感した世界との壁

アトランタ五輪を語る前園真聖、五輪サッカー代表に熱いエールを送った(撮影・柴田隆二)

東京オリンピック(五輪)から四半世紀前の1996年(平8)。アトランタ五輪で日本がブラジルを1-0で撃破した五輪最大の番狂わせと呼ばれた“マイアミの奇跡”は、世界サッカー史にも大きな1ページを刻み込んだ。

日本代表主将として、その立役者となったタレント前園真聖(47)が日刊スポーツに単独取材に応じ、25年目の真実を激白した。【取材・構成=村上幸将】

    ◇   ◇   ◇

僕がアトランタ五輪に出場して25年…東京五輪準決勝で日本はスペイン相手に、とても良いチャレンジをしてくれました。守備に関してはGK谷晃生選手を中心に集中できていましたが、疲れも出始めて足が止まる時間帯で最後にFWアセンシオのワンチャンスで決めきれる、スペインの技術はさすがでした。そのワンチャンスが悔やまれます。

多くの競技が無観客開催になった中、DF吉田麻也選手が開幕前に有観客開催の意義を訴えました。どの競技も観客の声援、後押しが勝敗を左右する。ましてや自国開催でアドバンテージもあると思う。他の競技の選手が誰も言えていなかった中、吉田選手がちゃんと自分の言葉にして説明し、思いをはっきり言ったのは良いことだと思います。他の競技とは違う、プロというサッカーの意識、そして世界を経験している吉田選手だからこそ言えたと思うのです。

96年アトランタ五輪では主将をやらせてもらいましたが、(後輩の)中田英寿と松田直樹は(前年の)ワールドユース(現U-20W杯)で世界に出ましたけれど、僕らの世代は初めての世界大会。自分と日本が世界でどれくらいの位置にあるか測る場だと思っていました。一方、今回の東京五輪代表は半分以上が世界を経験し、普段から対戦している選手と対戦するから違和感もプレッシャーもない。世界は遠い場所じゃないからこそ、自信を持ってプレーでき、当然、メダルを目指すと言います。明らかに僕らの頃とは経験値の差があります。

それでも毎回、五輪の時期になると“マイアミの奇跡”の映像が流れます。日本がブラジルにW杯、五輪の舞台で勝ったのは、いまだこの1回だけ。DFロベルト・カルロスやオーバーエイジでMFリバウドがいて攻めたかったけれど出来ず、本当にすごかった。改めて映像を見ると、意外とつなごうとして、ボールも回ったシーンもあるけれど…覚えていません。ボールコントロール、パススピード、判断…サッカー観を全部覆され、勝ったというより、すぐに世界でやらなきゃダメだと痛感しました。

横浜フリューゲルスに戻った自分の頭の中には、海外に行くことしかなかった。ただオファーがあったスペイン1部セビージャへの移籍は実現せず、23歳で未熟だったと思うのですが、どんどん自分のプレーを消化できなくなり空回りして抜け出すのが難しかった。98年のフランスW杯は出ていないし、実績で言うと五輪がピークになったのは間違いない。出なかったら僕には何も残っていないし、あの景色も見られなかったし、どうなっていたんだろうと思うこともあります。

僕の中で五輪は世界です。世界に飛び出し、経験した時に初めて分かることが詰まっていて、世界を知ったことで次の目標、夢が変わってくる。(五輪はキャリアを分けた)天国か地獄か? 五輪後、海外で挑戦できたら天国だったと思うけれど、あの時点で日本人が移籍するのは難しかった。そう思うと(世界が見えた)あの景色は見ない方が良かったのかも知れない。でも単純には分けられないし、僕の中でも分けちゃいけないと思います。出たことに後悔は全くないです。

◆前園真聖(まえぞの・まさきよ)1973年(昭48)10月29日、鹿児島県生まれ。鹿児島実を経て92年に横浜フリューゲルス入団。アトランタ五輪翌年の97年にV川崎(現東京V)に移籍も低迷。ブラジルのサントス、ゴイアスへの期限付き移籍を経て欧州で移籍を模索も、00年のJ2湘南を経て01年に東京Vに復帰。02年に退団し、Kリーグに挑戦も05年に引退。09年にビーチサッカーW杯に出場。引退後、解説者とタレントとして活躍。J1通算191試合出場34得点。日本代表として国際Aマッチ19試合出場4得点。