前園真聖、不祥事経て見つめ直した“マイアミの奇跡”とキャリア転落の真実

アトランタ五輪を語る前園真聖、五輪サッカー代表に熱いエールを送った(撮影・柴田隆二)

<前園真聖が語るアトランタ五輪“マイアミの奇跡”25年目の真実 その3>

東京オリンピック(五輪)から25年前の1996年(平8)。アトランタ五輪で日本がブラジルを1-0で撃破した五輪最大の番狂わせと呼ばれた“マイアミの奇跡”は、世界サッカー史にも大きな1ページを刻み込んだ。

日本代表主将として、その立役者となったタレント前園真聖(47)が日刊スポーツに単独取材に応じ、25年目の真実を激白した。第3回は2冊の著書を出版した際、書かなかった、書けなかったワールドカップに出られなかった理由。【取材・構成=村上幸将】

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前園は、スペイン1部セビージャへの移籍がかなわず、横浜フリューゲルスへの不信感を募らせ、1997年(平9)1月にヴェルディ川崎(現東京V)に電撃移籍も低迷した。そして翌1998年(平10)9月にブラジル1部の名門サントスに3カ月間の期限付きで移籍。サントスでは“サッカーの神様”ペレが着けた10番を背負い、同10月18日のブラジル全国選手権ポルトゲーザ戦後半20分にデビューし、1分後にゴール。ただ公式戦出場は4試合、1得点にとどまり、99年1月には同2部のゴイアスに移籍も、レギュラーに定着は出来ず、5カ月の契約満了をまたずに帰国した。

前園 サントス、ゴイアスに行った時も、もちろん、いいプレーで、ずっとレギュラーで出ていたわけではないけれども、サッカーに対する情熱、やっぱりサッカーは楽しいなという瞬間はあったし、こういうところで、もう1回、戦うんだという気持ちになれたし。

99年6月から欧州での挑戦を目指し、ポルトガル1部ギマラエス、MF香川真司が所属するギリシャ1部PAOKテッサロニキと相次いでテストを受けるも、入団には至らず帰国し00年、J2湘南に期限付き移籍。翌01年には東京Vに復帰も同9月の横浜Fマリノス戦で左足首を骨折。翌02年にはロリ監督の構想外になり退団。03年に安養LG(現FCソウル)、翌04年には仁川ユナイテッドに加入してKリーグに挑戦したが、05年にセルビア・モンテネグロ1部OFKベオグラードの練習に参加後、同5月に引退。かつての輝きとは裏腹の孤独な幕引きだった。

前園 ゴイアスに移籍し、入団テストを受けに欧州に行って、また日本に帰ってきて…。その(アトランタ五輪)後、実績は何もないし、知っている人も少ないじゃないですか? 「苦しかったでしょ?」と言われたら今、思うと、もちろん、苦しかったですよ。けれども、そういう自分を追い込むものがないと、逆に言うと続けられなかったですね。もちろん、その後、実績としては残せなかったけれども96年から05年、よく続けたなと思いますね。

引退後は「ZONOサッカースクール」を主宰して普及活動に取り組み、解説者としても活躍していたが、13年10月に愚行を犯してしまう。泥酔し、タクシー運転手に暴行を加えた疑いで逮捕。処分保留で釈放され、示談が成立後、4カ月間の謹慎を経て14年に活動を再開。同年に出演したフジテレビ系「ワイドナショー」でダウンタウン松本人志に飲酒の件でいじられて以降“いじられタレント”としてブレイクした。

それらを赤裸々につづった16年の著書「第二の人生」と、先立つ08年に出版した「12年目の真実 マイアミの奇跡を演出した男」では、自らのキャリアが転落した大きな要因は、アトランタ五輪後にセビージャ移籍が消滅した際の人間不信や、低下したモチベーションを上げられなかった精神的な弱さだとつづった。果たして、それだけが理由なのだろうか?

前園 もちろん、それが全てではないとは思いますけど、ただ…明らかに自分の中では、アトランタ五輪を経験して、終わる頃には、自分に頭の中には海外しかなかったんですよ。僕らが世界を経験していたら、また別でしょうけど…。五輪が初めての世界大会で、しかも、初戦があのブラジルでしたから、やっぱり受ける衝撃とともに、自分がどうしなきゃいけないか、目指すところはどこなのか…僕の場合、そこにフォーカスするしかなかった。

98年のワールドカップ・フランス大会で改めて自らを証明し、ヨーロッパ主要リーグへの挑戦を勝ち取るという気持ちの切り替えは出来なかったのだろうか。

前園 主将をやらせてもらって、ブラジルに勝った“マイアミの奇跡”のことを今でも言ってもらえるのは、すごくありがたいですけど、現役時代でも96年の後とか…引退してからもそうでしたが、やっぱり、そればっかり言われるのは自分の中ではコンプレックスだったし、嫌だと思っていたし…消化するのが結構、大変でしたね。98年にワールドカップ・フランス大会という流れは自分の中では当然、イメージしていたし…でも、出られなかった。

13年の不祥事後、自らを見つめ直し“マイアミの奇跡”という歴史的な偉業に評価が集中したことがコンプレックスとなったことも、キャリア低迷の一因だったと考えられるようになった。「第二の人生」の出版から5年を経過した今だからこそ認められた。

前園 (引退後)徐々にいろいろな仕事をさせてもらうことによって“マイアミの奇跡”のことを、ずっと言われるということは、それがなかったら、自分は、むしろ何もなかったんだなと思えてきた。五輪に出てブラジルに勝てたことが、逆に言うと今の自分を支えてくれているんだなという感謝に変わってきたんですね。でも、途中までは、それ(“マイアミの奇跡”)ばっかり言われるのが嫌だったし。多分、著書にもそれを書けなかったんだと思うんですよ。あの事件の後も「第2の人生」を出した時も、まだ何となく…。(年月が経過し)明らかに変わったのは、自分が大きな過ちをした後に、いろいろな人が助けてくれて、またいろいろな人に応援してもらえるようになってきてから。初めて…と言ったら、恥ずかしいけれども、本当の意味で、いろいろな人に支えられて今の自分があるんだと、本当の意味で感じられたんですよね。自分のことも、ちゃんと振り返られる、至らなかったところとか過ちを自分の口で言えるようになったり、分析できるようになったのは…その(不祥事の)後なんですよね。

次回は、日本が銅メダルを獲得したメキシコ五輪以来、28年ぶりの本大会出場を決めたアジア最終予選での思いを振り返りつつ、東京五輪代表をはじめ現在の若き後輩の可能性を語る。

◆前園真聖(まえぞの・まさきよ)1973年(昭48)10月29日、鹿児島県生まれ。鹿児島実を経て92年に横浜フリューゲルス入団。アトランタ五輪翌年の97年にV川崎(現東京V)に移籍も低迷。ブラジルのサントス、ゴイアスへの期限付き移籍を経て欧州で移籍を模索も、00年のJ2湘南を経て01年に東京Vに復帰。02年に退団し、Kリーグに挑戦も05年に引退。09年にビーチサッカーW杯に出場。解説者として活動も、13年10月に泥酔してタクシー運転手に暴行、逮捕。示談が成立後、断酒を宣言しタレントとして再起。J1通算191試合出場34得点。日本代表として国際Aマッチ19試合出場4得点。