五輪にまっすぐな大坂なおみ、思いは消えてない

大坂なおみ(2019年6月1日撮影)

<幻の20年夏>

もし20年に東京オリンピック(五輪)が開催されていたら、大坂なおみ(22=日清食品)は何を感じ、五輪に何を求めたのだろうか。女子テニスで18年全米、19年全豪を制したが、地元五輪の金メダルを「夢」と公言していた。大舞台は1年先に延びたが、五輪へのまっすぐな思いは消えていない。

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16年1月の全豪だった。無名だった大坂は、予選を勝ち上がり4大大会で初めて本戦入り。最初の会見で、はっきりと夢を語った。「私の夢は、東京五輪で金メダルを取ること。そして世界1位になること」。テニス選手としては、珍しいほど五輪への思いだった。

同年はリオデジャネイロ五輪を8月に控えていた。その時点で、どこの代表にもなってもおらず、世界ランクも足りていないため、リオは眼中になかった。しかし、代表経験がなくても、急激に実力をつけた新星が出場できる例外規則が存在することを話すと、「本当? いいことを教えてくれたわ」と目を輝かせた。

大坂は自身を「シャイ」と分析し、多弁ではない。話が取り散らかる天然性に加え、哲学的でもあった。私たち報道陣は、その言葉を“なおみ節”などと称することもある。ただ五輪の話の時だけは、分かりやすく多弁だった。

テニスの選手は、いつも五輪とは違う世界を見ている。ウィンブルドンなどの4大大会だ。五輪のテニス競技実施は24年パリ大会から88年ソウル大会まで64年のブランクがあり、4大大会と重みが違うという選手は多い。大坂は違った。

率直に「なぜ五輪なのか」を聞いた。答えは明確だった。「多くのスポーツ選手が目指す世界最高の舞台。そこに出たいと思うのは自然な夢。それも、自分の母国の五輪なんて最高でしょ」。そこには、まっすぐな思いしかなかった。

父が中米ハイチ出身で、母が日本人。大坂は日本生まれでも、人生の多くを米国で過ごした。18年全米優勝の帰国会見で、「あなたのアイデンティティーはどこにあるのか」という質問が飛んだ。大坂は困惑の表情で「私は私でしかない」と答えた。

大坂だけではない。NBAの八村塁や陸上のサニブラウンらは、ダイバーシティー(多様性)の象徴のように扱われる。しかし大坂は、きっと五輪への思いと同様に、「多様性よりも私は私」と、まっすぐに答えるに違いない。

1日は、本来ならテニス競技女子シングルス決勝の日だった。そこで大坂は強烈なフォアを見せていたはずだ。思い切って振り抜き、ミスもせずにたたき込める醍醐味(だいごみ)は、彼女が持つスポーツそのものだ。1年後。その胸のすくようなプレーを、まっすぐに見せる大坂が、東京の舞台を踏む。【吉松忠弘】

◆大坂(おおさか)なおみ 1997年(平9)10月16日、大阪市生まれ。3歳でテニスを始め、その後、米国に移住。13年プロ転向。16年東レパンパシフィックでツアー初の決勝進出を果たし、18年全米で4大大会シングルス日本人初優勝の快挙を達成。19年全豪も制し、世界1位に輝いた。父フランソワさんはハイチ出身の米国人で、母環(たまき)さんが日本人。姉まりもプロテニス選手。好きな音楽はラップ。趣味はゲーム。180センチ、69キロ。