ハリル監督息子が明かす…一家襲った壮絶な過去

父親について笑顔で語る、日本代表ハリルホジッチ監督の長男バニオさん

<W杯アジア最終予選:日本2-0オーストラリア>◇B組◇31日◇埼玉

 日本を6度目のW杯に導いたバヒド・ハリルホジッチ監督(65)。その長男バニオ・ハリルホジッチ氏(33)が日刊スポーツに独占メッセージを寄せた。幼少時代、ユーゴスラビア紛争でボスニア・ヘルツェゴビナの自宅を焼かれ、指導者としても浪人生活を余儀なくされた姿を見てきた愛息が、父親の異国での成功を祝福した。

父さん、予選突破おめでとう。アルジェリア(14年W杯ブラジル大会出場)に続く成功を日本でも収めたこと、本当に誇りに思います。フランスでは、ベンチで怒る姿が「レ・ギニョル」(人形劇形式で風刺する名物テレビ番組)のネタになるほど熱かったけど、日本でもそうだったのかな。

 昨年9月に僕がクロアチアで挙式した時、最終予選の合間に日本から戻ってスピーチしてくれたね。「ハリルホジッチ家の苦難の道のりを振り返れば、この結婚は本当に誇りだ」って。

 そう、二十数年前は本当に複雑な環境にあった。旧ユーゴ内戦で、すべてを失ったんだ。ボスニアの片田舎の農家に生まれた父さんはサッカーで財を成し、祖国のカフェ、レストラン、衣料品店に投資した。しかし、戦火が何もかも奪う。僕ら家族をパリに送り、単身赴任していた時だった。

 目の前で友人が死に、父さんも護身用の銃が暴発して負傷した、と聞いた。自宅も店舗も略奪と焼き打ちに遭った。幼い僕にも、あの時の父さんは完全に破滅しているように見えたよ。

 財産の大半を失い、パリのアパートで肩を寄せ合ったね。わずか35平方メートルの部屋に母さんと姉と4人で。確か、僕が9歳の時にボーヴェ(93年、フランス2部)で監督業を再開したと思うけど、1年で退任。そこから3年間は無職だった。42歳で一から勉強し直すことになり、Bミュンヘン、ドルトムント、ユベントス、アヤックスなどで無給の“研修生”として、いつも1、2カ月ほど家を空けていた。各クラブの監督に頭を下げて密着し、指導者のノウハウを苦労して学んでいた。モロッコのカサブランカから声がかかるまで。

 だからか、僕にサッカーを強要したことは1度もなかったね。現役時代は週7日、朝昼晩3度の練習を自らに課し、空き時間に映像を見ていた。その姿に、自分は向いてないと思わされたけど…(笑い)。とにかくサッカー選手の人生がどれだけ不安定か身をもって知っていたから、僕には、語学や見聞を広める旅行など、可能な限り最高の教育を受けられるよう最善を尽くしてくれた。だから僕は違う道で独り立ちできた。

 一方で父さんは65歳になった今も、サッカーで成功を収めている。それも、新婚の僕らに「東京に住みなさい」と勧めるほど愛している国、日本で。そこでの成功ほど誇らしいことはないし、2年半前、挑戦が決まった時には「日本をW杯に導いて、可能な限り最高の成果を挙げたい」と言っていたね。ロシアでは日本が新たな歴史を刻めると信じているし、その時はブラジルの時と同じように現地まで応援に行くよ。あらためて、今回の成功を誇りに思います。【取材・構成=木下淳、松本愛香通信員】

 ◆バニオ・ハリルホジッチ(Vanio Halilhodzic)1983年11月30日、フランス西部ナント生まれ。8歳の時にパリサンジェルマンの下部組織でサッカーを始めたが、プレーは高校年代まで。名門リール大で学び、複数企業に勤めた後、今月から欧州大手のスポーツコンサルタント会社「ラガルデール・スポーツ&エンターテインメント」に就職。スポンサーシップ・セールス・マネジャーを務める。企業とスポーツ界の橋渡し役として多角的にビジネス展開し「欧州で最も活気あふれる仲介者、複合企業(コングロマリット)である我々とのコミュニケーションを希望される日本企業に、お会いできれば光栄です」。父と同じく海外で仕事することが夢という。