中島翔哉、監督期待のドリブラーを独占インタビュー

日本代表に初選出され、本拠のポルティマン・スタジアムで笑顔を見せるポルティモネンセ中島(撮影・木下淳)

 【ポルティマン(ポルトガル)15日=木下淳】日本代表ベルギー遠征のメンバーが発表され、ポルトガル1部ポルティモネンセのMF中島翔哉(23)が初招集された。今季9得点6アシスト。16年リオデジャネイロオリンピック(五輪)で10番を背負ったドリブラーがポルティマン市内で取材に応じ、ワールドカップ(W杯)前最後の遠征に滑り込んだ初のA代表への思いを語った。

 ユーラシア大陸最西端に吉報が届いた。中島は「あまりA(代表)のこと考えたことなくて…。初だから当然ですよね」と笑いながら「世代別は経験してきたけど、より強い責任感、日本を代表する気持ちを持って勝利に貢献したい」と決意を口にした。女子の大会で知られる南部アルガルベ地方の港町ポルティマン。欧州屈指のビーチに注ぐ太陽光に負けない輝きを、昨年8月から新天地で放つ。

 移籍の翌9月にベンフィカ戦で先発デビューし、3連覇中の王者相手にアシストを記録。信頼をつかむに十分だったことを、以来22試合連続の先発起用が物語る。ポルト戦では元スペイン代表GKカシリャスからゴールを割るなど9得点6アシスト。3度のコーチ派遣で見極めた日本代表ハリルホジッチ監督から「こんなに俊敏で爆発的なスピードを持ち、1対1で抜ける選手はいない」と期待されるように、ドリブルと得点への執着心が武器だ。日本では時として「持ちすぎ」と指導されたが、この国では前への積極性として愛される。同僚のMF亀倉は「翔哉君は絶対に引かない。日本人らしくないからボールも集まる」。中島も「スタイルが好きで昔から映像を見ていた国」。16年春にU-23代表の遠征で初めて来た時の「ここだ」という直感も成功につながった。

 言語の適応も上々。来た当初「ナカ」と言われて中央に切り込んで怒られ、中島の「ナカ」だったという天然話はあるものの、中学時代の3度のブラジル短期留学と、日本でポルトガル語の塾に通った経験が生きた。多くの日本人が壁に当たる中で「ほかの言葉より聞きなじみがある」。通訳も務める、ブラジルと二重国籍の亀倉も「聞く方は全く問題ない」と証言する。

 夫人と2匹の犬と暮らす生活も「幸せ。街も人もいいし、魚もおいしいし、何より自分にものすごく合っているチームとリーグに来られた」と満足。ベンフィカ、ポルト、スポルティングの3強やドイツ、ウクライナなど国内外からオファーが届き、契約解除金2000万ユーロ(約27億円)とも伝えられるほど評価が急騰したが「もう少し、この国で。日本に帰りたいと思ったことは1度もない」という環境で成長できている。

 リオ五輪では10番を背負い、今回のW杯でも対戦するコロンビアから点を奪った。リオ世代の最多得点者(通算19点)が満を持してA代表へ。「ハリルホジッチ監督の『縦に速く』はポルトガルでは日常。繊細さはないかもしれないけど、Jリーグより縦に速くて力強いし、ぶつかりの激しさや体の強さも違う」とデュエルも望むところだ。常連の乾に代わる選出に気を引き締めながらも「楽しみたい。7歳の時に日韓大会を見てからW杯に出たいと思ってきた」。初代表でもプレー同様、前しか見ない。

<中島翔哉(なかじま・しょうや)アラカルト>

 ▼生まれ 1994年(平6)8月23日、東京都八王子市。

 ▼経歴 別所小1年の時に松が谷FCでサッカーを始める。東京のスクールにも通ったが、東京Vの下部組織でジュニアから育つ。

 ▼高校生プロ 2年時に2種登録でトップ昇格。3年10月にプロ契約を結ぶ。

 ▼J最年少ハットトリック 12年10月21日J2栃木戦で。18歳59日で松波正信(G大阪)の記録を更新。

 ▼移籍 14年1月に東京へ完全移籍し、同時に富山へ期限付き移籍。同8月に東京復帰。ポルティモネンセには期限付きで移籍後、保有権を買い取られた。

 ▼代表 11年U-17W杯の準々決勝ブラジル戦(2-3)でゴール。14年U-22アジア選手権チーム得点王(3点)。リオ五輪最終予選を兼ねた16年U-23アジア選手権は準々決勝イラン戦の2点などで優勝に貢献。大会MVPに輝いた。

 ▼背番号 手倉森ジャパンでは10。チームでは23。

 ▼いとこ 母が柏DF小池龍太(22)の母と姉妹。

 ▼サイズ等 164センチ、64キロ。血液型AB。利き足右。昨年8月6日に結婚。