森保少年、父とサッカー部作り母とはダッシュ練習

森保監督(右から2人目)と左から父洋記さん、母真知子さん(親族提供)

<ポイチの原点(2)>

 日本代表の森保一監督(49)がサッカーの道を切り開いた陰には、父洋記(76)の尽力と母真知子(72)の教えがあった。通った中学にはサッカー部がないなど、長崎市の地元はボールを蹴る文化が乏しかったが、両親の指導で日本サッカー界で最も大きな責務を担う男が誕生した。

 森保が本格的にサッカーを始めたのは深堀小6年と遅かった。小5のときに隣町にある土井首サッカークラブ(SC)の練習に誘われたのがきっかけだった。生まれ育った長崎・深堀町は野球とソフトボールが盛ん。洋記も「ボールを足で蹴る? どこがおもしろいのかなと」と1度はやめさせたこともあった。それでも森保は両親に告げずに毎日隣町まで徒歩で往復1時間をかけて通った。

 小6の夏。土井首SCは全国大会まで勝ち進んだ。経験が浅かった森保は補欠GKとして地区大会に参加したが、起用された試合で好セーブを連発。GKとして全国大会にも出場した。「やっぱり、子がやりたがっていることをやらせてあげたい」。洋記は考えなおし、週刊誌3誌を毎週予約購入して読みふけった。

 問題は中学で起きた。深堀中にはサッカー部がなかった。森保は1年時、土井首中に練習に通った。公式戦には出られないが、実力は抜群で練習試合には参加できた。ただ、それが土井首中の部員のねたみにつながった。スパイクを隠されるなど嫌がらせを受けた。森保は洋記に「来年からは練習には行かない」とだけ漏らした。

 この言葉を聞いた洋記は決断した。「深堀中にサッカー部を」。何度も校長室へ足を運び、校長と教頭に直談判した。「グラウンドを使わない」という条件つきで創部を許可された。当時はハンドボール部が強豪で練習場を独占。それでも「部さえ作れればしめたものだった」と洋記。地元の造船場の裏手にある駐車場の使用許可をとり、顧問を頼んだ英語教師と一緒に雑草を刈り、砂利を拾って整備した。監督は自分の名を使い、戦術は森保ら選手に任せた。学校側と交渉を続け、3年時からはグラウンドも使えるように。森保らは次々と大会で優勝し、長崎日大高から特待生で誘いがくるまでに成長した。

 勝負事になると負けず嫌いな森保の性格は、母から受け継いだ。運動会の前日には家族全員で近くの運動場へ行き、父をタイム計測係にして真っ暗になるまでダッシュ練習を繰り返した。60歳を過ぎても孫の運動会で保護者の種目に出場していたという真知子は「負けず嫌いがすぎるんです」と恥ずかしそうに笑った。穏やかな性格の息子に、勝負師の魂を植えつけた。

 サッカー不毛の地だった地元で育った森保は、東京オリンピックと日本代表の二刀流という日本人では過去にない責務を担うまでになった。日本代表監督就任が決まってから、まだ親子での会話はない。「忙しいでしょうから。心配ですけど、そっと見守るだけだと思います」。洋記と真知子はそう口をそろえた。(敬称略)【岡崎悠利】

 ◆森保一(もりやす・はじめ)1968年(昭43)8月23日、長崎市生まれ。長崎日大高から87年に広島の前身マツダ入り。守備的MFとして京都、広島でもプレーし、03年に仙台で現役引退。J1通算293試合15得点、日本代表では国際Aマッチ通算35試合1得点。12年から広島の監督を務め、3度のJ1制覇に導いた。家族は夫人と3男。愛称「ポイチ」。